真実の口(3)
「俺の買い置きのコーヒー牛乳!」

 襖を開けたとたんの良守の叫びに、後に続いていた利守はこけそうになった。
 難しい顔をしている繁守と剣呑な雰囲気を漂わせている正守の前で、平然とコーヒー牛乳を飲んでいるキヨコの度胸も凄いが、この状況でなおコーヒー牛乳にこだわる良守も普通じゃない。

「ケチくさいこと言うんやない」
「てめぇ! 人のコーヒー牛乳飲んどいて言う台詞か!」
「何言うとんのや。お父はんが出してくれたんやで」
「なにー!」

 ギンと音が立ちそうな眼差しを向けられた修史が、オロオロしながら告げる。

「いや、でも、お茶よりコーヒー牛乳がいいっていうから」
「でも…………っ!」
「良守」

 咎めるような兄の声に、良守は口を噤んだ。
 そんな弟に、正守が続ける。

「今はそんなことを話している場合じゃないだろう。ともかく、座れ」

 その言葉にぐっと唇を噛みしめ、ムッとした顔で良守が居間へと進む。その後ろに従いながら、利守は心の中で溜息をついた。

 逃げたい。心の底から、逃げたい。
 長兄と次兄の確執に、できれば巻き込まれたくないんだけど。逃げちゃダメだろうか? 状況から考えて、自分がここにいても何にもならないことは確かなんだけど。

 だが、ふてくされてそっぽを向いている良守以外の全員の視線が、早く座れと言いたげに自分に向けられている。
 その視線に、致し方なく利守は良守の隣に座った。
 いや、もちろん利守だって兄のことは心配なのだ。ただ、今回のことで自分が手助けできないことは、キヨコの話を聞いた段階で解っている。だからこそ、上の二人の確執に巻き込まれたくなかったのだが…………。

 ああ、でも、そんなふうに考えちゃダメだよね。家族としては。
 オロオロとしている父の姿に、利守はそう考え直した。何ができなくても、心配していると示すことで当事者の気を楽にしてあげられるはず。
 といっても、次兄は長兄の存在に完全に意識を奪われていて、自分になんて気付いてもいないようなのだが。

「で?」

 利守が席に着くとほぼ同時に、家族代表として繁守がそう口を開いた。

「どうして、良守はこんな面妖なことになっておるのじゃ?」
「祝福や」

 ズズズとコーヒー牛乳を啜りながら、キヨコが答える。
 その端的すぎる答えに、ピクリと正守の眉が動いた。が、長兄が何かをするより先に、次兄が立ち上がる。

「頭に口が出来ることの、いったいどこが祝福だぁっっっ!」
「そう叫ばれても、ホンマのことやからなぁ〜」

 予想通りの反応だというようににんまりして答えたキヨコを見て、正守が口を開いた。

「良守、少し黙ってろ」
「って何でだよ! 当事者は俺なんだぞ!」
「おまえが話すと、話が進まない」
「…………っ!」

 何か叫ぼうとして出来ないでいる良守の後頭部では、防音結界の内側で盛大に口が動いている。あまりに口の動きが速くて何を言っているのかは解らないが、罵詈雑言だということは確かだろう。
 兄二人が揉めるのはいつものことだが、これから先のことを考えると早めに止めた方がいい。
 そう思って、利守は口を開いた。

「神佑地で良兄の噂話して回ったんだって」
「あぁ〜! せっかく溜めとったのに!」 
「オレの噂ぁ?」
「神佑地だと?」
「どういうことじゃ?」
「え? え? え?」

 五者それぞれの反応を見ながら、利守が続ける。

「それで、いろんなトコの土地神が良兄のこと気に入って祝福を授けることにしたんだって」
「うちの台詞、取るんやない!」

 そう言ってこっちに飛んでこようとしたキヨコの周りを、結界が取り囲む。
 誰が、と見るまでもなかった。祖父も次兄も、烏森に関すること以外ではさほど剣呑なことはしない。

「正守……」

 困惑したような祖父の声に、長兄は真面目な顔で答える。

「彼女のせいで良守がこんなことになってるんですよ。お祖父さんは甘すぎます」
「そ、それはそうじゃがのう…………」

 烏森の力を得ようとしているわけでないキヨコを、その気になれば滅することができる結界内に閉じこめていることにためらいがあるのだろう。言葉尻が弱々しい。
 とはいえ、正統継承者である良守が被害にあっているからという正守の言葉を否定できないのも事実。
 難しい顔で唸っている繁守とは対照的に、キヨコは閉じこめられた結界の中でくつろいだ格好で座っている。やはり並々ならぬ度胸というべきだろう。

「あ、兄貴……」
「なんだ? おまえも結界を解けと言うのか?」
「いや、だってさ……オレのこれを何とかする方法聞かなきゃいけねぇじゃねぇか」
「おまえ、何を聞いてたんだ。利守は『祝福』って言っただろ? 祝福は呪いじゃないから解けない」
「へっ?」
「烏森には正統後継者を守ろうとする意思がある。だから、呪いだったらまだマシだったんだ。上手くすれば、烏森にいるだけで解けた。だが、祝福となるとそうはいかない」

 淡々と語られる兄の言葉に、みるみるうちに良守の顔から血の気が引けていく。

「マ、マジかよ!」
「それだけじゃない。いろんなトコの土地神がとも言ってただろうが。つまり、頭にもう一つ口が出来るだけじゃ済まないってことだ」
「…………っ!」

 良守が声にならない悲鳴を上げた。
 よほどショックだったのだろう。後頭部の口も、O字形のまま固まっている。
 そんな弟に、正守は淡々とした口調で続けた。

「ここで彼女を滅しても起こったことはどうしようもないが、これ以上の被害は防げることは確かだ」
「ちょ、ちょっと待って、正兄っ!」

 表情が変わらなかったから気付かなかったが、どうやら長兄はかなりきていたらしい。
 今にも「滅」と言いそうな正守に、慌てて利守は叫んだ。

「治る方法はあるんだって! だから!」
「…………祝福を解除する方法が?」

 まるで信じてないという口調でそう言った正守の言葉を受け、利守が「早く言って」と告げるようにキヨコに視線を向ける。
 それを受けて、彼女が口を開いた。

「話はちゃんと聞けや、若造」
「…………」
「うわぁっっ! 正兄、正兄っ! 待ってっっ!」
「兄貴! 止めろって!」

 弟二人に両側からしがみつかれ、正守が渋々という顔で構えていた腕を下ろす。
 そんな正守を見て「物騒なヤツやなぁ」と呟いたキヨコが、改めて口を開いた。

「おまえに与えられたのは、祝福は祝福でもおまじないレベルのもんや。一応、みんな烏森に遠慮したんやな」
「おまじない?」
「まあ、土地神サンたちのおまじないやから並のもんやないけど」

 おまじないという言葉の持つ牧歌的な雰囲気と、土地神という存在とのギャップに眉を顰めている面々を前に、キヨコが続ける。

「ちなみに、おまじないは恋愛成就ものや」
「…………は?」
「おまえが寝とぼけてる写真持って、今の烏森の結界師はこんなアホ面やて話して回ったんやけど」
「誰がアホ面だぁっっっ!」
「良兄、良兄っ!」

 正守の結界に囲まれていることは解っているはずなのに、その中にいるキヨコに殴りかかろうとした良守を、慌てて利守が制する。

「話が先! 話が先だから!」

 そんな二人の傍らで、正守が「写真?」と呟いている。
 そんな彼に、キヨコが懐から幾枚かの写真を撮りだした。

「念写だけど、良く撮れとるで」
「ふむ」

 結界に押しつけられた写真をじっくり見ながら、正守が「これを土地神に?」と尋ねている。
 そのあまりに真剣な様子に脇からそれを覗き込んだ繁守が額を抑えながら大きな溜息をつき、写真だけは見えるらしい修史も何ともいえない顔で「良守……」と呟いている。

 いったいどんな写真なんだと覗き込んだ利守は、そこに写った幸せそうな寝顔に思わず視線を逸らせてしまった。
 烏森で深夜頑張っているから日中眠いのは解るが、家ならともかく学校でもこうなのか。もうちょっと警戒心を持つべきなんじゃあ。
 そんな思いを抱かせる写真に、次兄は「ぎゃぁっっっ!」とか叫んでいる。

「この写真、女の土地神サンたちにえらく評判良くてなぁ」
「ふむ」
「うちにはただのアホにしか見えんのじゃが、ファンクラブができてなぁ」
「……土地神のファンクラブ」

 実に複雑そうな顔で呟いた正守に、キヨコが続ける。

「烏森の結界師の大変さはみんなよう知っとるからなぁ。そんな中で幸せになるためには、恋しかないやろって話になって」
「…………」
「みんなで恋愛成就のおまじないをしてやろうってことになったワケや」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」

 声が聞こえていない修史以外の全員が、何ともいえない顔で固まっている。
 その姿に、修史が「え? え? みんな、どうしたの? 何かあった?」と言っているが、誰も説明する余裕を失っていた。

「……まあ、土地神のやることじゃからな」

 年の功というべきか、最初に口を開いたのは繁守だった。もっとも、どこか遠いところに視線を彷徨わせての台詞だったが。
 それを聞いて、良守がハッとしたように叫ぶ。

「なんでそれが妖怪二つ口になるんだよ!」
「簡単な話や。そのおまじないをした土地神サンは、恋の成就のためには素直になることが必要と思ったんやろ」
「…………は?」

 意味が解らないというように目を見開いた良守に、キヨコは平然と続けた。

「だから、おまえが素直になれない相手にその心の内を話すことができれば、もう一つの口は消えるってワケや」

 その台詞に、良守は言われたことが理解できないという顔で目を瞬かせ、正守は僅かに眉を顰める。

 そんな二人の様子に、こっそりと利守は溜息を洩らしたのだった。  
07'09.04.初稿