優しい侵略者(1) | ||
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やばいっ! そう思った次の瞬間には、法衣の胸の部分が大きく斜めに切り裂かれていた。 「良守っっっ!」 なんで、時音はそんな声出したんだろう。 そう思った次の瞬間、胸に火傷したような熱さが走り、血がぶわっと吹き上がった。 油断してたつもりはないんだけど、油断だって言われるんだろうなぁ。でも、滅しようとしたあやかしの腹から別のあやかしが飛び出してきて、結界破ると同時に斬りつけてくる。なんて思いつくか? ああ、でも、そんな言い訳聞いてくれるはずなんてない。 自分は死にかけた挙げ句にあやかしになんてものになったくせに、少しでも怪我を増やすとひどく怒るのだ。 心配してくれていることは解っているんだけど、怒られるのはやっぱり嫌だ。 自分でもあまのじゃくだと思うんだけど、そんなふうに頭ごなしに叱られるとつい反発したくなる。そんな態度を取れば、兄がどんな反応を示すか解ってるのに…………っていうか、血がものすごくたくさん出てるんだけど、大丈夫なんだろうか? 正統継承者は烏森の地では滅多に死なないっていうけど、滅多にってことは絶対ってことじゃないよな。 倒れ込む短い時間に考えていたのはそんなことで。 地に叩きつけられるかと思った背がたくましい腕に抱き留められた時には、視界が暗くなっていた。 「正守さん!」 『まっさん!』 時音と白尾の声が聞こえる。 『良守! しっかりおし!』 耳元で斑尾の声も。 「大丈夫。傷を塞ぐ」 間近から兄の声が聞こえた。 妙だなと思う。あやかしになってから、兄は烏森には足を踏み入れないようにしていたはずなのだ。 烏森の力で勝手にパワーアップしてしまい、そのせいで、あやかしとしての本能が理性に取って代わられるかもしれない。 その危険を犯したくないからと、そう言っていたはずだ。 それに、兄を嫌っている斑尾が、その当の本人が傍にいるのに自分の近くにいるなんて…………。 「ま、正守さん……」 もう馴染んでしまった強い妖気が間近で生じると同時に、怯えが滲んだ時音の声が響いた。 やっぱり兄が来ているのか。そういえば、時音はあやかしになった兄と会うのは初めてだったよな。 そう考えた時には、胸にあった熱い感触が一瞬で消え失せていた。 おそるおそる目を開くと、赤く目を光らせた兄と視線が合う。 「大丈夫か?」 「うん……」 答えて頷いたとたんに激しい目眩がする。 それに気付いたのか、兄が呟いた。 「傷は消したが、流れてしまった血は戻せなかった。ここから出たら治してやるから、少し待て」 「え?」 「時音ちゃん、すまないけど後を頼めるかな? 一応、祖父には式神で知らせておいたけど」 「は、はい」 時音の声には未だ怯えの色がある。 別に怯える必要なんてない。兄は兄で、あやかしになっても少しも変わってなくて……いや、少しは変わったか。あやかしになった後の方が、自分に対する当たりが柔らかい。 それはたぶん、妖力補充のためにああいうことをするようになったからなんだと思う。 っていうか、あんなことまでされてるのに今までと同じように対応されたら、絶対に自分はパニック症状を起こしていたに違いない。 兄にとって『あれ』の目的は妖力補充のためなんだろうけど、でも、やっぱりそれだけじゃないと思う……というか、そう信じたい。 餌にされるためだけにあんなことをされているというのは、やっぱり…………。 「じゃあ、良守は連れて行くよ」 血が流れすぎたのか、とりとめのないことを考えていた良守の耳に兄の声が響いてくる。 その言葉の内容に驚き、良守は慌てて兄の袖を引いた。 「ちょっ……あのあやかしは?」 「滅したに決まってるだろう? 治療に取りかかれる前に始末した」 「え、でも……?」 自分が斬りつけられてから倒れ込むまでの時間は、そんなに長かったはずはない。その間に現れ、あのあやかしを倒し、自分を抱き留めたのか? 信じられなさに目を瞬かせた良守を抱き上げ、正守は続けた。 「詳しい話は後だ。長くここにいたくない」 「あ……うん」 答えたとたんに、兄もろとも体が宙に浮かび上がる。 結界で、体を一気に上空に持ち上げたのだろう。 見上げると、妖力を使ってるわけでもないのに兄の目は未だ赤く輝いていた。 力の使いすぎなのか、あるいは烏森のせいなのか。どちらにしろ、兄に負担を掛けたことは間違いない。 「ごめん」 「何について謝ってるんだ?」 「……迷惑かけた」 返事は大きな溜息だった。 呆れたと言わんばかりのそれにムッとしたが、とてもじゃないが言い返せる状況ではない。 なので、良守は話を変えることにした。 「あ〜。兄貴、近くに来てたんだ?」 「いや。夜行の本拠地にいた」 「え?」 「おまえが大怪我したことに気付いたから、跳んだんだ」 「……跳んだ?」 自分が怪我をしたことに気付いたというのは解る。 主従関係を結んだせいで、自分に急激で大きな体調の変化が起これば解るようになったのだと聞いていたからだ。 だけど、跳んだとは? 意味が解らずに問い返すと、あっさりと答えが返ってきた。 「空間を繋いだ」 「空間を繋ぐ?」 「修業すればできるようになる。結界師の能力のうちだ」 「…………」 何となく馬鹿にされてるような気がする。 いや、たぶん兄にはそんな気はないのだろう。そうは思うのだが…………。 何となくもやもやした気分になって黙っていたら、具合が悪いとでも思ったのか強く抱きしめられた。 暖かい感触。胸板に頬を押し当てれば、ちゃんと鼓動も感じることができる。 あやかしでも体温も鼓動もあるのか。それとも、人間であることを忘れまいとしている兄が、必要もないのにそれを保っているのか。 詳しいことは解らない。 自分としては、兄の体が温かく、耳に鼓動が響くほうが安心する。 特に、あの時は…………。 蘇ってきた記憶に勝手に顔が赤くなってくるのを感じ、それを見られないようにより強く兄の胸に顔を埋めた。 「辛いか? すぐに着く」 兄の声が降ってきたと同時に、平行方向への移動が下方へと変わる。「大丈夫」だと告げようと、慌てて顔を上げたところで軽い衝撃があった。 どこかに着地したらしい。 そう思いながら視線を巡らせる。 どうやらベランダに降り立ったらしい。見覚えのある景色が、兄の肩越しにチラリと見えた。 あやかしになってから家に立ち寄らなくなった兄が、自分と会うために用意したマンションだ。 「その法衣はもう駄目だな」 部屋に入ったとたんに言われた台詞に驚いて、自分の胸元を見た瞬間、良守はゾッとして体を震わせた。 思いっきり切り裂かれているだけではない。血でぐっしょりと濡れていたのだ。 「え? でも、匂い…………」 ここまで血が出ていたのに、どうして匂いがしなかったんだろう。 そんな馬鹿みたいな考えがぐるぐると頭の中を巡っている。 「遮断している。凄い匂いだからな」 「遮断…………」 あやかしになってからの兄はほぼ万能だとは解っていたが、まさかそこまでするか? 予想外のことに呆然としている良守をベッドに下ろし、兄が口を開く。 「とりあえず、法衣を脱がないとな。それと、血を戻さないと」 「血を戻すって……どうやって?」 「とりあえず、水を飲め。後は何とかする」 「…………」 何かもう突っ込む気力さえ失って、差し出されたペットボトルに口を付けた。とたんに、ひどく喉が乾いていることに気付く。 一気に飲み干し、差し出された次のペットボトルの水も飲んでいると、兄の手が胸の辺りにかざされたのが解った。 一瞬で、体中が熱くなる。 さっきの怪我を負わされた時のような鮮烈なものではなく、体中の細胞が沸き立っているという感じだ。 ぼんやりと見上げたその先には、兄の赤く光る瞳。 魅入られたようにその光に見つめていた良守が、力が戻ってきた腕を伸ばして兄の首へと巡らせる。 「良守?」 ぐっとその頭を引き寄せ、良守は自分の名を呟いたその唇にそっと唇を重ね合わせていた。 |
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07'10.25.初稿 |