首輪(後)
「あに……き?」

 正守が突然やってくるなんてのはいつものことだ。
 だが、その日の訪問は何かが決定的に違っていた。
 実家でもなく、烏森にでもない。学校からの帰り道を待ち伏せされていたことも妙だったが、何よりおかしかったのは…………。

「……なぁ。なんで、妖気なんて纏ってるんだ?」

 尋ねる声が震えている。
 兄の姿をした者が妖気を纏ってるのならば、普通に考えてあやかしが兄に化けていると考えるのが順当というものだろう。
 だが、目前の存在がそんなものでないことは確かだった。良守の勘が告げている。これは確かに自分の兄だと。
 驚愕と衝撃に目を見開いている弟に、正守は苦笑いしながら細いベルトのようなものを差し出した。

「悪いけど、俺の主人になってくれないかな?」
「……兄貴?」
「ちょっとミスって死にかかってさ。でも、心残りがありすぎたんだろうね。気付いたらあやかしになっててさ」

 今日の夕飯、海老フライ。と告げているような気楽な口調と表情だった。
 その様子と漂ってくる妖気の強さのギャップに、良守が頭を掻きむしる。

「…………何だよ、それ!」
「何だと言われてもねぇ」

 困ったようにぽりぽりと頬を掻く仕草は、常の兄のものだ。この妖気さえなければ、つまらない冗談と断じてしまっていただろう。
 だが…………。

「元幹部でもあやかしはあやかし。下手に事情を知ってるだけに、放置しとくと危険って話になりそうでさ」
「…………え?」
「裏会幹部って性格悪いのばっかりだからね。このままだと、たぶん夜行の奴等に俺を退治しろって命令すると思うんだよ」
「…………そんなっ!」

 夜行のメンバーがどれだけ兄を慕っているのか知っている良守が、大きく目を見開いた。
 あやかしになるほどの心残りがある兄が、黙って討たれるとも思えない。でも、この様子を見るに、自分が集めて面倒を見ていた人間を笑って返り討ちにできるほど冷酷非情になったとも考えにくい。
 そんな兄を追わなければならない夜行の人たちがどれほど苦しむか、想像するにあまりある。

「そんな事態を避けるためには、調伏されるのが一番なんだよ。調伏されたあやかしは、その主人のものだ。いくら裏会といっても、勝手に処分なんてできない。よほど悪いことするなら話は別だろうが、おまえはそういう意味では信用あるからな」
「調伏……」

 呟いて、兄が差し出しているベルトのようなものを見る。
 となると、これは斑尾や白尾の首に巻かれた首輪のようなものなのだろうか? でも、いったいこれをどこに?
 言葉にされなかった問いを読み取ったのか、正守が答えた。

「これを、俺の首に巻いてくれ」
「首輪かよ!」

 犬じゃあるまいし、どうして? 
 そんな意を含んだ言葉に、正守は真面目な顔で告げた。

「調伏されていることがすぐに解る場所じゃなきゃ話にならない。裏会幹部ってのは、『気付かなかった』の一言でこっちを滅そうとしてくるような輩なんだよ」
「…………どういうところだよ、裏会って」

 げんなりとして呟いた良守に、兄は軽く肩を竦めてみせる。

「おまえの目から見て、夜行のメンバーはどう見えた?」
「…………? どうって、特殊能力は持ってるけど普通っぽい?」
「そう。そして、それが『変わっている』とか、『はみ出し者』とか表現されてしまうような所だよ、裏会ってとこは」

 その答えに大仰に顔を顰めた弟に首輪をグイと押しつけて、正守が続けた。

「という訳だ。あまり時間がない。付けてくれ」
「ちょっ、ちょっと待てよ! 調伏するってことは…………」
「おまえが俺の主人になるってことだ」

 何を当然のことを。という顔で返された言葉に、良守が一歩退く。

「む、無理!」
「なんで?」
「無理ったら、無理!」

 手と首を同時に振っての拒絶に、正守が眉を顰める。

「じゃあさ、誰ならいいの?」
「じ、祖父さんとか!」
「…………おまえ、俺に『お祖父さんの反対押し切って裏会に行った挙げ句、死に損なってあやかしになりました』って言えっていうの? 下手すりゃ、そのまま滅せられるでしょ」

 真面目な顔でそう言われ、考える。
 祖父は確かに頭は固いが、だからといって情がないわけではない。いくら孫があやかしになったからといっても、すぐに滅するはずはない……と思いたい。

「それとも、時音ちゃんのトコに行ったほうが良かった?」
「へ?」

 女王のように高笑いを響かせる時音と、その足下にうやうやしくひざまずいている兄と。
 想像した図に、良守は慌てて首を振った。

「ダメ! それは絶対にダメっ!」
「じゃあ、誰にすればいい? 母さんなら笑いながら受け入れてくれそうだけど、どこにいるか解らないしさ。早急に、俺を悪用しないと裏会が認める術者と契約しないとまずいんだって」
「うっ…………!」

 言われてみれば確かにそうだ。
 兄ほどの術者をしもべにして、絶対に悪用しないと断言できる人物。それを、兄曰く根性がねじ曲がっているらしい裏会幹部にも納得させることができ、なおかつすぐに連絡が取れる相手だなんて、そう簡単には思いつかない。
 だが…………。

「兄貴が……俺のしもべ…………」

 言葉の違和感に背筋が寒くなる。
 顔を青ざめさせて自分自身を抱きしめた弟に、正守は告げた。

「あ、そうは言っても常時一緒でおまえを守護ってつもりはないから」
「は?」
「基本、夜行に貸し出しってことにしてくれると助かる。あそこは俺が作った組織で、まだいろいろ不安定なんだよね。あやかしになった以上、たとえ調伏されてるとしても、裏会からは追放される確率高いんだけど、アドバイザーとして派遣されてるって形にすれば仕事はできるし」
「はぁ」
「もちろん、おまえが主人なんだから命令には従うつもりだけど、基本的には今まで通りってことにしてもらいたいんだ。そのつもりで、この首輪の拘束力も弱めにしてある」

 どうやら、兄は自分のところに来るまでに総ての可能性を想定してきたらしい。
 少し考え、何もかも今まで通りなら別に構わないかと良守は思った。後に、そう判断した自分の甘さを呪ったものだが、兄がマイナス要素を悟られないように話を持ってきていたことは確実で、そんな正守の企みを自分が見破れるはずもない。
 結局、良守は兄が何かを隠していることに気付かないまま、急かされるままに正守の首にその首輪をはめたのだった。
 そして…………。



「気がついたか」

 その声に目を瞬かせ、良守はあやかしと化した兄を調伏した……いや、させられた時の夢を見ていたことに気付く。
 どうやら、快感が過ぎて意識が飛んでいたらしい。

「騙された……」
「おまえもしつこいねぇ。俺は、嘘なんてついてないよ?」

 そう言いながらそっと上半身だけを抱き上げられ、口移しに水を飲ませてくれる。
 その仕草はうやうやしいと言ってもいいほどで、今この瞬間だけならば、確かに兄が自分のしもべと言っても誰も疑わないだろう。

「……言わなかっただけって言うんだろ?」
「そのとおり」

 口元を緩めて頷くその姿は、馴染んだ兄のものだ。
 ついさっきまで妖気を湛えた目を自分に据え、この身を貪っていた相手とは思えない。
 そんなことをぼんやりと考えながらその顔を見ていると、正守は何とも表現しがたい表情になった。

「おまえが主人になってくれて、本当に良かったよ」
「…………兄貴?」
「主人がおまえじゃなきゃ、とっくの昔に消滅してただろうし」

 そりゃ、普通はこんなことまではしないだろう。自分だって、相手が兄じゃなきゃ絶対に受け入れなかった。

「そういえば、あやかしになるくらいの心残り、解消できたのかよ?」

 あの時のことを夢に見たせいで思い出したことを口にする。と、正守はその問いに一瞬目を見開き、次の瞬間には今まで見たこともないような顔で笑った。

「……正確に言えば、解消中というところかな?」
「解消中?」
「一回すれば気が済むというものでもなくてさ」

 にっこりと笑われながらの答えに、首を傾げる。
 いったい兄の心残りとは何だったのだろう?
 その問いを口にするより先に、瞼の上に手を置かれた。

「夜明けまではまだ時間がある。少し眠っておきな」
「…………うん」
「寝ている間に、体力は戻しておくから」
「……う…………ん」

 あやかしになる前も有能な兄だったが、今ではほぼ万能なのではないかと思うくらいだ。
 体力を戻してくれることに関しては、奪うようなことをしないでくれるほうが嬉しいとは心の底から思うが。
 そんなことを考えながら、良守は安らかな眠りに落ちていったのだった。  
07'08.31.初稿