聖夜の贈り物(3)
 突然現れた老人の姿を見た瞬間、正守は驚きに目を見開いた。

 時期はずれとまでは言わない。が、かの老人が姿を現すのは、もう少し後のはず。こんな早くに姿を見たなどという話など、聞いたこともない。
 しかし、現実に彼は現れているわけで……それもこれも、人外のものに好かれがちな良守のせいかと思ったとたんに、何故か胸が痛んだ。

 その痛みと共に、ずっと押し殺してきたものが湧き上がってこようとしていることに気付いた正守は、慌てて首を振ることで再びそれを封じ込める。

 自分の内に直視してはまずい感情が眠っていることを、正守はずっと前から気付いていた。
 子どもの頃はそれに振り回され、苛立ち、八つ当たりも随分したと思う。その度毎に弟の顔が哀しく歪むのを見て、そのことに残酷な愉悦を感じている己に気付いた時に、自分はあの家を出ることを決意したのだ。

 なるべく遠く。なるべく長く。
 そうすれば、消え去るだろうと思っていたそれは、三年の月日を経たのだからもう大丈夫だろうと思って実家に戻ったとたんに再び強く存在を主張し始め、正守は途方にくれたものだ。
 距離も時間も消えさせることができないものをどうすればいいのか。

 方法は二つしかない。
 真っ正面から向き合うか。逃げるか。

 正守は逃げる道を選び、ずっとその感情に気付かぬふり、知らぬふりを続けることにした。
 弟のためとか、立ち上げたばかりの夜行のこととか。言い訳はたくさんあったが、実際のところ理由は単に怖かっただけだ。

「俺は卑怯で臆病者だからねぇ……」

 思わず呟いてしまった正守の耳元で、黒姫が老人と子どもたちのやりとりを囁く。
 どうやら、子どもたちも亜斗羅も老人の正体には気付いていないようだ。
 もしかしたら、その存在を知らないのかもしれない。彼女もまた異能を理由に家族に見放され、裏会に所属した身だから。

 そんなことを考えていた正守の耳に届いた老人の言葉は、思わず目を瞠ってしまうほどきついものだった。
 一番の望み、「親に愛されたい」という願いを言い当てられた子どもは泣きそうになっているようだし、「時が戻して、限を助けたい」と思っていたらしい亜斗羅の声はずいぶんと固い。

 いくら何でも子ども相手にそこまで。と思うと同時に、もしかしたら、一年に一度の良守との逢瀬を邪魔されたと怒っているのかもしれないという気になる。

 愛が平等に与えられるものではないのは、人間も人外のものも同じこと。
 こんな時期に良守に会いに来るほど思い入れがあるのだから、それを邪魔した者たちに対する苛立ちはあって当然というものなのだろう。
 言葉で済んでいるのは、かの存在が全き善なる存在だからだ。

 そんなことを思っていたところに、良守の声が響いてきた。
 どうやら、子どもたちに願い事のコツとやらを伝授しているらしい。

 自分で叶えることができる願いを自分で叶えろ。かの老人が無理だと言った類の望みは諦めろ。そして、残ったものの中で一番を選べ。
 当然といえば当然な良守曰く『コツ』の後で、老人が楽しそうに告げた言葉に正守は顔を蹙めた。

 良守の望みとはいったい何なのだろう? 毎年、叶えてもらい続ける願いとは? 
 子どもたちが食べ物や玩具をねだっている声を聞きながら、正守は首を傾げる。

『お菓子の城』を作るというのは、良守自身が叶えたい願いだろう。烏森封印も、彼自身がするつもりのはずだ。というか、あの老人では烏森は手に余るはず。
 子どもたちのように、菓子をねだっているのだろうか?

 美味しいものを作ろうと思うのならば、美味しいものを食べることが必要だ。もしかしたら、その目的のためのケーキを毎年ねだっているのかもしれない。いや、たぶんそうなのだろう。
 正守がそう納得したところに、子どもたちの「バイバイ」という声が聞こえてくる。

 どうやら、彼等はサンタクロース捕獲は諦め、その存在に対する不信と期待を抱きつつ亜斗羅と共に帰ることにしたらしい。遠目にも、彼女が呼び出した妖獣にわらわらと乗っているのが見えた。

 端から見れば、あの老人がサンタクロースというよりその光景の方がクリスマスらしいんじゃないだろうか。
 そんな暢気な感想を抱きつつ立ち上がろうとした正守の耳に、黒姫が老人の声を伝えてくる。

《良坊、今年の願いも「夢を見たくない」なのかな?》

 その声に、正守はピタリと動きを止めた。

 夢を見たくない? 美味しいケーキを食べたい、ではなくて?
 予想だにしなかった重苦しい願いに呆然としている正守の耳に、良守の声が響いた。

「ああ。今年も頼むよ、爺ちゃん」
《儂は本来、豊穣をもたらす神なんじゃぞ。非生産的な願いはそろそろ止めにして欲しいもんじゃがなぁ》
「……1週間のフライイングだしな」
《それは別に構わんよ》

 あの特徴的な笑い声をたてながら、老人が答える。
 しかし、それは本当に特別なことなのだ。なにせ、彼は歳神。大晦日の夜に各家を訪れるのが普通なのだから。

《良坊、夢を拒絶しても現実を変えることはできんぞ》
「解ってる……でも…………っ!」

 悲鳴みたいな声の後、長い長い沈黙が広がる。
 黒姫の能力に不信を抱いたところに、か細い声で良守が続けた。

「もう嫌なんだ……起きた時に悲しくて死にたくなるような幸せな夢も。後悔で気が狂いそうになるような辛い夢も」

 いったい良守は何を言っているのだろう?
 幸せな夢で胸が潰れ、辛い夢で苦しむ。というのか? あの良守が?

 子どもだ。子どもだと思っていた。
 だが、本当の子どもはそんな夢など見ない。そんな夢を見るのは何かに深く心捕らわれた者だけで、そんな存在ができてしまった者は、いくら幼くてももう子どもではないのだ。

 いったい何に……いや、ここで現実から目を背けても仕方がない。夢も見たくないほど心捕らわれるものなど、人以外にはありえないではないか。

 いつの間に。そして、誰に。
 そう思うと同時に、胸に錐を刺されたような鋭い痛みが走る。鉄錆びた匂いが走り、自分が唇を噛み切っていることに気付いた。

 可能ならば走りより、その胸座を掴んで問い糾したい。
 だが、自分が出向けば良守が口を閉ざしてしまうことは確実で、だから正守は膝に置いた指がギリギリと肉に食い込むほどに我慢して、黒姫が伝える囁き声に耳を澄ませた。

「爺さんが人の心を変える力を持っていたら、俺はきっとそう頼んだ。頼んで、その結果、俺のこと見るようになったあの人に、俺は絶望するんだ。本当に好かれたわけじゃない。爺さんの力のせいだって。ホント、爺さんが人の心を変えられなくて助かったよ」
《可能ならば、良坊の心の方を変えてやったんじゃがのう…………忘れさせてやることはできるぞ?》
「無理だよ。烏森が妙だってこと、爺さんだって解ってるんだろ?」

 その呟きに、正守は、良守が想う相手が時音なのだろうと判断する。
 姉に対する執着を幼い恋に間違えただけの想いだと信じていたのに、どうやら自分の目には願望という名のウロコがついていたらしい。
 そうと解ったからには、これ以上聞く必要もない。

 その思いに、正守は立ち上がる。
 いや、本当はそうではない。聞いて、心の奥に押し込めた想いに決定的な止めを刺されるのが怖いのだ。この気持ちが、解き放たれることのないまま殺され、壊死し、腐臭を放つのが耐え難いのだ。卑怯で臆病な自分を見せつけられるのが嫌なのだ。

 最後まで自分はみっともない。
 自嘲の笑みを浮かべた正守がその思いと共に黒姫を呼ぼうとした時だった。その口がぱくぱくと動き、言葉を紡ぐ。

「それに、昔のことを忘れたってどうしようもない。だって、家族なんだ。いつもは遠く離れてたって、会わずに済ませられるわけじゃない」
「え?」

 信じられなさに目を見開き、正守はまじまじと黒姫を見つめた。
 だが、彼女は主の視線など気にした様子もなく、良守の声を伝え続ける。

「それに、さ。俺が忘れたくないんだ。兄貴との思い出は何一つ忘れたくないんだよ」
《じゃが、夢は見たくない》
「うん」

 良守の答えに、歳神は僅かな沈黙の後で続けた。

《じゃが、今年はその望みを叶えてやれぬようじゃ》
「なっ! なんでだよ!」

 悲壮感さえ漂ってくる良守の声。
 それに、軽い調子で歳神が答える。

《それはじゃな…………》

 その声が聞こえた瞬間、正守は自分の体が『力』でがんじがらめにされた挙げ句に引きずられるのを感じた。

《「夢を見たくない」という望みより、もっと強い願いを叶えてやれそうだからじゃよ》
「…………っ! なんで……! 嘘だろっ!」

 悲鳴のような声は、すぐ間近で聞こえる。
『力』が自分の周りから離れると同時に視線を落とすと、間近に大きな目をこぼれ落ちそうなほどに見開いた良守の顔があった。

 視線が合ったとたん顔を引きつらせた良守が、背を向けて逃げだそうとする。
 それを素早く結界で包むことで動きを完全に止めてから、正守は背後の老人に向き直った。

《儂は子どもにだけプレゼントをやるなどというセコイことはせんのよ》

 ふぉっふぉっふぉっと特徴的な笑い声を上げて、そう告げる歳神に正守は深々と頭を下げる。

「鏡餅はいつもより大きいものを用意いたします」
《善い哉、善い哉》

 その声と共に、老人はスッとその姿を宙へと溶け込ませた。
 残ったのは、自分と結界に閉じこめられた弟と、墨村家に仕え続けている妖犬のみだ。

『言っておくけどね、わたしはアンタのこと大嫌いなんだよ』
「…………」
『でも、野暮はしないさ。そういうのは趣味じゃないからね』

 その言葉と共に、斑尾が烏森へと降りていく。
 それを見て、「あぁ〜〜! 酷ぇ、斑尾。主人を見捨てるのか!」と叫んでいる良守の周りから結界を外し、つんのめりそうになったその体を抱き留める。と、良守は大きく体を震わせ、身を強ばらせた。

「な、何だよ……」

 声が震えている。
 拒絶されると信じているのだろう。身も心も防御態勢を取っているらしい良守の、白くそそけだったうなじを見ながら、正守は囁いた。

「中学を卒業するまで待つつもりだったんだけどな」
「…………は?」

 たとえ嘘でも、押し通せば本当になる。一生、騙し通せばいいだけの話だ。
 嘘をつき通す自信はあったし、たぶん良守は騙され通してくれるだろう。

「あんな告白聞かされたら、俺の気持ちも言うのが筋ってもんだろ?」
「こ、こくはくっ!?」

 腕の中、あたふたし始めた良守をより強く抱き寄せて、正守はもう何年もの間押し殺してきた気持ちを解放してやることにする。
 もちろん、解放したからには色よい返事以外のものは受け付けるつもりもなく。
 たぶん弟のそれは、正統継承者とか方印とかそういうもののせいで、抱かなくていい罪悪感を抱いたゆえの執着でしかないと解っているのだが、そんなものを勘違いさせてしまえばいいだけのことで。

 甘い言葉を囁きながら、正守は弟を手に入れるための綿密な計画をその脳裏に描き続けていたのだった。
2007年クリスマススペシャル