Around the World |
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唐突なのはいつものことだが、その日はとびきりだった。 烏森でのお勤めを終え、疲れ果てての帰り。門を閉め、玄関までの玉砂利の道に一歩踏み出そうとしたところを上空から引っ張り上げられた。 それまでまるで気配はなかった。匂いもなかったのだろう。斑尾がびっくりした顔でこっちを見上げているのが目の端にチラリと写る。 それでも騒ぎもせず追っても来なかったのは、引っ張り上げられる一瞬前だけ気配を晒した相手が誰なのかすぐに解ったからだろう。 「……何だよ、いきなり」 「急に思いついたんだ」 しれっとして答えたのは、あやかしになってしまったバカ兄貴だ。 「いつから見てた」 「おまえが派手にこけたところからかなぁ」 「……最初からじゃねぇかよ」 このバカ兄貴は、何かで死ぬほどの大怪我をしたらしい。だけど、未練がありすぎて死ぬに死ねずにあやかしになったのだという。 いったいどんな未練があればあやかしになんてなるんだと思ったが、怖くて詳しいことは聞いていない。前にそれとなく聞いた時は、「解消中」で「一回じゃ満足できない」とか言っていたので、「世界征服」とか「人類殲滅」とか……そんなに大事じゃなさそうなのだが。 と、まあそういう事情で、兄貴は決して烏森の敷地内には入らなくなった。 本体が墨村家と雪村家の敷地内に封印されている斑尾や白尾と違う。そのまま入ったら、力が暴走するかもれしない。 一応、兄は人間としての感覚が強く残っていること。良守が主人で、その能力を悪用させない。という条件で、今でも夜行の頭領を続けているのだ。烏森の力でパワーアップした挙げ句、あやかしとしての感覚が強くなりすぎるのは、正守的にもあまり嬉しくないことらしい。 「で、何?」 「ん〜。おまえ、『アラジンと不思議なランプ』って知ってる?」 「はぁ?」 いったい何を言い出すのかと思いながら首を傾げ、記憶を総ざらいし、自分にその問いを投げかけた本人がずっと昔に読んでくれたおとぎ話を思い出す。 「……確か、ランプ磨いたら魔法使いが出てきて三つ願いを叶えてくれる話じゃなかったっけ?」 「出てくるのは魔法使いじゃなくてジンだけどね。おおむね正解」 「ジン?」 「魔神っていうか……アラビア辺りのあやかしのこと」 「へぇ」 それがいったい何なんだという意を込めて見ると、兄貴はニヤリと笑った。と同時に、乗ってる結界が動き出す。 「へ?」 「子どもたちが、それを元に作ったらしいアニメのDVD見ててさ」 「って、もしかして魔法の絨毯やってみたかったとか?」 いったいどういう条件指定掛ければこんなふうに動くのか。 そう思いながら、自分たちが乗っている板状の結界をぽんぽんと叩いてみる。 「ああ。それと…………」 その言葉と同時に板状だった結界が自分たちを取り囲むものになり、一気に加速した。 「ど、どこに行くんだよ!」 「おまえにいろんなトコ見せてやろうかなって」 「……いろんなトコ?」 「主人公が、お姫様を魔法の絨毯に乗っけて世界を見せて回るシーンがあったんだよ」 「…………」 「閉じこめられてるって点では、お姫様もおまえも似たようなもんだろ?」 「それなら時音だって……」 「時音ちゃんはまずいでしょ。お祖父さんに、雪村の人間の前に出るなと言われてるし」 雪村にも墨村にも、かつて闇に堕ちた人間はいたという。だが、あやかしにまでなってしまったという記録はなく、兄貴がこうなってしまったことを祖父は非常に恥じている。 結局、兄は勘当され、墨村・雪村両家の人間の前に顔を出すなと言われてしまったのだが…………実際の話、一応は主人であるはずの自分の命令でさえ時に無視する兄貴が、祖父の言うことを真面目に守っているとは思えないのだが。 「時音は、『ダークサイド正守さんに一回会ってみたい!』って叫んでたけど?」 「……おまえ、俺にバケツ被って『I'm your brother』って言ってほしいワケ?」 「ナニ、それ?」 意味が解らずに尋ねると、兄はがくりと肩を落とした。 「おまえ……スターウォーズも知らないの?」 「な、何だよ! そのくらい知ってるに決まってる! ちょっと腹が出た艦長と、耳の尖った副長が乗り込んでる宇宙船で探検に行く話だろ!」 「…………それはスタートレック」 「…………」 正直な話、本当はどちらも見たことはない。市ヶ谷が熱く語っていたのを半分寝惚けながら聞いていただけなので、間違っているのも当然というものなのだが。 「……なんでそんなに詳しいんだよ?」 むすっとして尋ねると、真面目な顔で答えられた。 「おまえみたいに日中ずっと寝てなかったから」 「…………っ!」 「何度も言ってるけど、おまえの戦闘スタイルは非効率的なんだよ。必要ないとこまで走り回ってるから無駄に体力使って、昼も寝なきゃ耐えられなくなる」 「……説教かよ」 ムカッとしてそう言うと、苦笑した気配がした。 「昔はもっと効率的な方法探せばいいのにって思ってたけど、今はちょっと違うかな」 「え?」 「おまえはおまえらしくすればいいさ」 「…………」 何か微妙に深いこと言われたような気がして、何も言えなくなる。 妙に気詰まりな沈黙を破ったのは、兄だった。 「見えてきた」 「……何が?」 「タージマハール」 「は?」 「昔、インドの王が王妃のために建てた霊廟だ」 そう言って指し示された建物は…………ライトアップされていることもあって、信じられないほど綺麗だった。 「うっわぁ〜〜〜〜」 「霊廟だからな。お菓子の城の参考にはしにくいかもしれないけど」 「え?」 「おまえ好きだろ、ああいう建物」 「あ……うん」 もしかして、お菓子の城の参考になる建物を見せるために連れてきてくれたんだろうか? わざわざ結界を移動させる術を考えてまで? その思いに、せっかく連れてきてもらった建物ではなく兄を見つめてしまった良守に、正守は苦笑した。 「ちゃんと見ておけよ。あまり長居はできない」 「え?」 「まだ見るものいろいろあるから」 「いろいろって?」 「二十時間くらいは時間があるが……仮眠する時間も考えておかなきゃいけないし、見たいものはいっぱいあるだろ? 本命はヨーロッパの城だろうし」 「え? え? え?」 「このまま西に移動すれば、ずっと夜だからな」 「えっと……もしかして、世界一周するつもりだったり?」 「当然だろ? ここから東に戻ったら、夜が明ける。いくら俺でも、日が昇っている間は、こんなもので空飛んでるところを見られなくするのは難しい」 ということは、つまり兄は結界ごと自分たちをまるっきり見えなくしているわけで。 日が昇ったらできないということは、たぶんあやかしになってから手に入れた能力でそれをやっているんだろう。 あやかしになってから、兄はほぼ万能だ。 できないことって何なんだろうと、つい考え込んでしまうくらいで。 「どうした?」 「え?」 「タージマハールは気に入らないか?」 「え? いや、そうじゃなくて! 兄貴にできないことってあるのかなってちょっと考えてただけで……」 「あるに決まってるだろ。日が昇ったら力は半減するし、だいたいおまえからエネルギーを貰わなければ死ぬ」 「…………っ!」 そのエネルギーの摂取方法を思い出して、真っ赤になって固まってしまう。 そんな良守に気付かないふりをしつつもさりげなく近づき、正守はタージマハールの説明を始めた。 「これを建てた王は、川を挟んだ隣に自分の廟も建てるつもりだったらしいんだが……望みは叶わなかった。息子に幽閉されてしまったそうだ」 「へ、へぇ……」 後ろから抱き寄せられる。 広くて分厚い胸板の感触を背中で感じて、良守は身を強ばらせた。 それを気にしたそぶりも見せず、正守は眼下の建物の周りをぐるっと回ってみせる。 「正面からの写真は多いけど、裏から見たことはないだろう?」 「う……うん」 「これを作った王は、自分の廟は黒大理石で作って、白大理石で作った妻の廟と橋で繋ぐつもりだったらしい。死んだ後も一緒にいたかったということか」 「…………そんなに好きだったのかな?」 それは、あまり考えての発言ではなかった。 抱きしめられているその感触や、兄が喋る度に耳や首筋に掛かる吐息や……そんなものに気を取られ、あまりちゃんと考えることができなくなりつつあったのだ。 そんな弟の言葉に、正守はふっと笑いを洩らす。 それによってビクリと体を震わせた良守に気付かぬふりで、答えた。 「そうかな? 俺だったら墓を繋ぐなんてことじゃ我慢できないが」 「…………我慢?」 「骸の処遇なんてどうでもいい。本当に好きな相手が死んだら、一分一秒だってこの世に存在していたくはない」 「…………」 「ああ、でも確かに愛する者の体を放置するのは嫌かもしれないな。ならば、その骸を食べてしまおうか」 「た、食べて……?」 焦ったように掠れた声を上げた良守の耳の後ろにそっと口づけを落とし、囁く。 「驚くことはないだろう? 愛する者の死体を食べてしまう話は洋の東西を問わず、数多くある」 「う、うん…………」 「おまえは死体になっても甘いかな?」 「お、俺っ?!」 耳朶を噛まれながらの問いに素っ頓狂な声を出した良守に、正守が続ける。 「いつもおまえは甘い」 耳の内側に舌を這わされ、囁かれた。 濡れたその感触と音に一気に体が昂ぶってくる。 「んっ……!」 「ああ。でも、喰う暇はないな。おまえが死んだら、その時点で俺も消滅するような呪にしてあるし。病死や寿命じゃなかったら、俺の方が先に死んでるはずだしな」 「な、なんで……」 「主を守って死ぬのがしもべの役割だからね」 聞きたい答えはそんなものじゃなかったのに、それ以上を問う言葉が出てこない。 いつの間にか法衣の中へと入ってきていた大きな掌が、感じる場所を刺激し始めていたからだ。 たとえ見えないような呪が掛かっていても、ここは外で、その証拠に眼下にはライトアップされた霊廟が。頭上には煌めく星空が広がっている。 なのに、後ろから抱え込んでいる兄の腕を自分は解けと言うことすらできない。 「タージマハールはもういい?」 答えられず、良守はただこくこくと頷くばかりだ。 頬を染め、涙がにじんだ目で自分を見上げてくる弟のこめかみに口づけを落とし、正守は囁く。 「あまりお菓子の城の参考にはならないような気がするけど、イスラム圏の国を回ってモスクを見ていくか? それとも、ヨーロッパにまっすぐ行く?」 「……っ!」 「そうだよね。やっぱりヨーロッパの城がいいか」 まともな返事など一つもしていないのに勝手に話を進めていく兄に、良守が恨みがましい眼差しを投げる。 その、自分では気付いていないだろう艶冶な目付きに苦笑し、薄く色づいたまなじりに口づけを落として、正守が囁いた。 「こんなつもりじゃなかったんだけど。おまえ、凄くいい匂いするんだ。甘くて、美味しそうで…………我慢できない」 「バカ……あに…きっ…………んっ!」 「城に近づいたら教えてやるから、それまで俺に美味しく喰われて」 「…………は…ぁ……んっ!」 そこまで行ったら、もう良守にどうにかできる状況ではなくて。 熱くて、苦しくて、悦くて、体が蕩けて流れてしまいそうな時間が長く長く長く……続いて、その途中で、確かにとても有名な城を近くで見せられたような記憶もないではないが、ほとんど夢か幻を見たかのような曖昧さで、はっきりと目が覚めた時には既に家の近くだった。 「バカ兄貴」 呟いた声に、珍しくも神妙な顔で兄が「すまない」と頭を下げたのでそれ以上怒ることもできず……まあ、一応は世界一周に連れ出してくれたわけなので、後日、良守はホワイトチョコで作ったタージマハールとそっくり対の黒のタージマハールを作り、互いの間に橋を架けたお菓子の城を造ったわけなのだが。 それをもらった正守が、生涯初めてというくらい真面目に反省したことは知るよしもなかった。 |
07'10.03.初稿 |