愛しくも、憂鬱な日 |
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味噌汁の匂いで目が覚めた。 実家を離れてから、こんなことは滅多にない…………というか、確実に1年に1度だ。 「……今日って14日か」 課題に追われて、すっかり忘れていた。 去年も同じ失敗をしたのに、自分は本当に忘れっぽいらしい。 「今から逃げるのは…………無理だよなぁ」 あの兄の目を盗んでここから脱出することも、1日中その追跡をかわすことも、全力を出せばできないことはないだろうが、その後が怖い。 学校がありさえすれば日中は逃れられもしたが、マズイことに今日は日曜だ。 「寝直すか……」 とりあえず、それが一番無難な選択だろう。 そう思いながら、良守は蒲団を被り直して目を閉じた。 「…………無理だ」 頑張って寝直そうとしてみたのだが、今日が何の日か思い出したとたんに眠気などどこかに飛んでしまっていた。 兄と人に言えないような関係になったことを後悔はしないが、この日だけは何とかならないものかと思う。 「ああ! くそっ!」 叫んで起き上がったとたんに、ドアが開いた。 「目が覚めたのか? 朝食できてるぞ」 「……いつ来たんだよ?」 「ん? 2時間くらい前かな?」 「仕事終わってるんだろうな?」 聞いたのは、以前、仕事の合間にやってきた兄が結局一睡もせずに出かけてしまったことがあるからだ。 いくら平気だと言われても、良守にとっては昼寝なしで仕事に出かけることなど考えられないことで、あの後でずいぶんと心配させられたのだ。 以来、顔を見る度に発してしまう問いに、正守は苦笑を浮かべた。 「ちゃんと終わらせてきてるさ。今日は特別だし」 「…………」 「生チョコがたっぷり詰まった豆大福のお返しだしなぁ」 ニヤリと笑いながらの台詞に、良守は顔を引き攣らせる。 1ヶ月後の報復が怖いと解っていても、バレンタインの季節になるとついトンデモチョコを作ってしまうのは、最初の記憶が悪すぎるせいだ。 初めて良守が兄に渡したチョコレートケーキは、純粋なる謝罪の品だった。 兄を模した式神が高校時代に貰ってきたチョコレートを、居所がはっきりしない兄に転送するわけにもいかないのだからと菓子用に転用し、貰いっぱなしはマズイだろうと気を回してホワイトディ用にと手作りのクッキーを式神に託した。 その結果、正守には菓子作りが得意な恋人がいるという噂が広まってしまったところまでは、まあそういうこともあるかもで済まされるレベルの話だったと思う。 だが、成績が良かったにもかかわらず進学しなかったことや、卒業後の連絡先を同級生の誰も知らず、家族に聞いても言葉を濁されてしまうことが、噂を妙な方向にねじ曲げてしまったらしい。 気付いた時には、正守は恋人との仲を家族に反対された結果、駆け落ちしたということになっていた。 いくら何でもマズイだろうから噂を訂正しなければと良守は思ったのだが、どうすれば良いのか皆目解らない。 祖父や父に相談してみたのだが、祖父は「噂など放っておけ」と言うばかりで、父もこれに関しては「そのうち消えるよ」とのほほんとしていた。 実際、根拠のない噂などいつの間にか下火になり、今では「そんな噂もあったけど、本当のところはどうなんだろう」程度の話になっているに違いない。 だが、当時の良守はそんなふうには思えなかった。 なにせ、自分がホワイトディ用にクッキーを式神に持たせたのが原因なのだ。その上、式神とはいえ兄の姿をした相手に渡されたチョコレートを勝手に使ったこともあって、罪悪感が刺激されまくってしまっていた。 もちろん、ずっとそのことを心に留めていたわけではない。 久しぶりに兄に再会した時には、烏森を狙う敵が迫っていた緊急事態だったし、その後も次から次へと事件が起こり、そんなことを思い出すような余裕はなかった。 だが、町にハートの形をしたデスプレイがあふれ出し始めると条件反射のように思い出してしまい、それで、ついチョコレートケーキを焼いて兄に渡してしまったのだ。 当然ながら、他意はなかった。 式神とはいえ兄へと託されたものを三年間使ってしまっていたことや、この時期しか店に入らないチョコレートが手に入ったこと。なにより、それが一番の得意だったゆえの選択だったのだが…………。 渡されたそれに一瞬固まった後、兄は何とも表現しがたい表情で笑った。 その表情に何やら背筋が寒くなって慌てて事情を説明したら、兄も「みんな暇だな」とか呟いていたので、それで総てが終わったと思っていたのだが。 一ヶ月後。 祖父にどういう説明をしたのかまったく不明ながら、数日間おつとめを免除されて連れ出された。 自分の力が必要な状況なのかと思って付いていったら、何故か美味いケーキ屋巡りが延々と続き……まあ仕事は夜だろうし、これはきっと報酬の前払いみたいなもんなんだろうと暢気に構えていたら…………。 今でも、あんなことを中学生にやるなんて、なんて酷い男なんだと思う。 いや、もちろん暴力をふるわれたわけではない。無理強いは確かに無理強いだったと思うのだが、なんというか、その気になるように強引に持って行かれたというか…………。 その、あまりに強烈な記憶のせいで、自分は兄のことを絶対に忘れられなくなったのだ。 もちろん、最初は反発した。 以前のように顔を見なくて済むように逃げ回ってもみた。 だが、かつてそれができたのは兄が許してくれていたからなのだと思い知らされ……気付いた時には、いつの間にか好きになっていたのだ。 というか、たぶんあれは、そうなるように強制的にもっていかれたんだと思う。 しかし、そうなってしまっては仕方ない。 自分の気持ちを認めてしまえばずいぶんと楽になり、良守が素直になると兄からからかうような素振りも消えて、今では、遠距離恋愛ではあるものの、それなりに普通の恋人同士のようになっているのだが…………でも、バレンタインだけはダメなのだ。 兄とこうなってしまったことを今では後悔していないが、当初の困惑と羞恥と苦悩の日々を思い出すと、とてもじゃないが普通のチョコなんて作れるはずもなく、毎年毎年トンデモチョコを作っているわけなのだが。 「俺が作ったチョコレートが気に入らなかったのかよ?」 「いや、今年のは食べるのにそう苦労はしなかったな……見た目のせいで、最初の一口が辛かったが。後は量かな」 「5つくらい、いつも平気で食ってるじゃないか」 「中が餡だったら平気だが、生チョコの塊だったからなぁ」 「…………」 「まあ、楽しみにしてろ」 ニヤリと笑ってそう言って、正守は部屋から出て行ってしまう。 ますます不貞寝したくなかった良守だったが、以前、それをやった時に「具合が悪いんだな?」と言われ、ベッドまで食事を運ばれた挙げ句に念糸で縛り付けられて、料理を口に運ばれたので、ここはやはり起きた方が良いだろう。 別に酷いことをされるわけじゃない。 出される料理の味付けがムチャクチャだったこともないし、おみやげだといって持ってきてくれる菓子は、良守の好みを熟知した兄の選りすぐりの品々だ。 ただ、王女に傅く騎士のごとくな態度で一日中世話を焼かれるのを平気な顔で受け入れるなんていくつになってもできないだろうし、バレンタインに贈ったチョコの出来によって変わるその後のことが…………。 もちろん、報復が怖くて渡さなかったこともあった。が、その年のホワイトディに起こったことは、兄との行為にだいぶ慣れたはずだった良守をして2度とバレンタインを無視するまいと思ったほどのことで。 「今年はナニされるんだろう」 ポツリと呟いた言葉は、重く、だが僅かばかりの期待の響きを伴って部屋に響いたのだった。 |
書くべき部位を全部省略してしまったような気がします 10'03.14.初稿 |