盛夏 |
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「暑ぃ……」 縁側に寝っ転がったまま、良守はだらけきった声を出した。 庭は灼熱地獄。道場は蒸し風呂。 じじいはそれでも修業しろと言ったが、父の反対で修業は朝夕だけということになった。無理して熱中症になったらと心配したらしい。 なので、日中は思う存分惰眠を貪れるはずなのに……暑すぎて眠れない。 一応、ここがこの時間家で一番涼しい場所のはずなのだが、風がそよとも吹かない状況ではいかんともしがたかった。 墨村家にはエアコンはない。たぶん、雪村家にもないだろう。 どんな状況で戦うことになるか解らない結界師が、体を甘やかしてどうするのかということだ。 それでも、かろうじて扇風機はあったのだが、かなりの年代物のそれは同じタイプのもので発火事故があったというニュースを見た父によって春頃に処分されてしまった。 そして、そのまま新しいのを買うのを忘れ…………暑くなってから「買いに行かなきゃね」と連日のように言ってはいたのだが、仕事が忙しかったり何なりで、ようやく今日買いに行ったというわけなのだが。 「扇風機選ぶのに、なんで三人で行く必要あるんだよ……」 解っている。家にいるより、家電店に行った方が涼しいからだ。 父は「一緒に行くかい?」と言ってくれたが、じじいと一緒なら製菓の材料を扱っている店に寄ることもできないので断った。 誰もいなくなればケーキ造り放題と思ったからということもあったのだが…………暑すぎてオーブンどころかガスレンジに近付く気にもなれない。 「暑ぃなぁ…………」 風さえ吹けばずいぶん違うはずなのに、風鈴から下がっている短冊はピクリとも動かない。 暑さに負けたのか蝉すら鳴かない昼下がりは、恐ろしいほど静かだ。 「世界中に俺しかいないみてぇ」 呟いた言葉の内容に、自分で怖くなった。 思わずガバリと起き上がり、辺りを見渡す。 だが、人の気配はない。家の中にも、外にも。隣家の気配を窺うが、どこかに出かけているのか物音一つ漂ってこない。 「…………っ!」 恐怖で金縛りになるというのはこのことか。 動いたとたんに妄想が現実になりそうで、身動き一つとれない。 そんな時間がどれくらい続いただろう。不意に響いてきた電子音に、のろのろと良守は振り向いた。 「携帯……」 兄の電話番号しか入っていないこれが鳴るということは、兄はこの世に存在するってことで……ああでも、幽霊が携帯鳴らして呪いを伝播させるホラー映画ってあったよな。 そんなことを思いながら、携帯を取る。 『もしもし? 取り込み中か?』 「…………兄貴」 聞こえてきた声に思わず泣きそうになった。 それを敏感に感じ取ったのか、兄の声音が変わる。 『何かあったのか?』 「何も……」 『良守?』 「何もない……昼寝してたら悪い夢見ただけだ」 『…………本当に?』 納得しがたいという声だったが、本当に何もなかったのだから他に言いようがない。だから、良守は話を逸らせるためにも尋ねる。 「兄貴の方こそ、何かあったのか? 急に電話してくるなんて」 『ああ。実は、仕事先の近くに評判の洋菓子店があったんで、ゼリー買ったんだけどさ。お一人様二点限りでね。おまえと食べようかなって思って』 だから携帯に掛けてきたのかと納得する。二つのゼリーを家族五人で分けて食べるのもかなり寂しい話だろう。 『だから、暇ならマンションに来ないか?』 「……今、家には誰もいないけど?」 家族に内緒で兄が借りているワンルームマンションのことを思うと、ただでさえ渇いている喉がカラカラに干上がるような気がする。 エアコンが効いたあの部屋で、今この瞬間よりも熱い時間を過ごしたのは一度や二度ではない。 『ん〜〜。でも、最中に帰ってこられちゃ困るだろ?』 「あ、兄貴っ!」 『二つしかゼリーないんだからさ』 引っかけられたことは解っていても、ほのめかされたそれに体の芯に熱が籠もっていくのを感じる。 『来いよ、良守』 携帯電話越しに響く兄の低い声。 他には何の音も聞こえない。風鈴も、蝉も、車も、人声も……何もない。自分を日常の世界に引き止めるものは何一つ。 兄と自分と。 世界にたった二人しかいないような……そんな気がした。 |
08'08.02.初稿 |