四月の魚 |
---|
「何だとぉっっっ!」 その叫びを聞いた正守は、オーブンから取り出そうとしていたキャセロールを慎重に元の位置に戻した。余熱で火が通りすぎるかもしれないが、下手に外に出しておいて、せっかく作ったものが台無しになるよりはマシだろう。 あの勢いなら、たぶん数秒後には自分を探して駆け込んでくるはず。とりあえず、火の近くからは離れていたほうが無難だ。 そう思ってリビングに移動したところに、子機を持ったままの良守が駆け込んできた。 「あ、良守。ご飯できたよ」 とりあえず勢いを弱められるかなと思って言ってみたが、どうやらその程度で収まる程度の怒りではなかったらしい。黒目がちの大きな目をつり上げて怒鳴りつけてくる。 「この嘘付きヤロウっ!」 全身で怒っていますと表現している弟に、正守はわざとらしく首を捻ってみせた。 「嘘って?」 「二人で住むこと決まってたからここ借りた、だなんて嘘じゃねぇか! ケーキ作るならキッチンでかい方がいいだろうと思ってここを選んだって母さん言ってたぞ!」 キッチンの件は確かにそうなのだろうが、自分がここに来るだろうことを見越していたのも確かなはず。 どうして、いらぬ波風立てるかなぁ。と、正守は内心で溜息をついた。 実家に戻る間も惜しんでここに越してきたことに対してのクレームなのか。それとも、単に騒動が好きなのか。 母に関してはどちらもありえる。 そう思いながら、正守はしれっとした顔で頷いてみせた。 「ああ、そういえばそうだった」 「『そういえばそうだった』じゃねぇっっっ!」 「でも、父さんと母さん。それでいいって言ってたろ?」 「…………っ!」 ダメだと言ったはずはない。 状況を考えるとそんなことを言うはずもないし、もし本当にそうだったら良守の態度は違ったものになっていたはずだ。 その確信の下に尋ねると、やはりそうだったのだろう。怒りのために顔を真っ赤にしたままで良守は黙り込んだ。 その顔に、ちょっと意地悪な気分になって尋ねる。 「何? そんなに俺と一緒に住むの嫌なの?」 と案の定、良守は地団駄を踏んで叫んだ。 「そういうこと言ってるんじゃねぇ! なんで、そんな嘘付くんだよっ!」 「いや、だってそう言わなきゃ追い出す気だったでしょ?」 「…………っ!」 こぼれ落ちそうなくらい目を見開いた後で唇を噛み俯いてしまった良守に、これ以上追い詰めたらヤバイなと正守は判断する。 拗ねられるならともかく落ち込まれでもしたら、自分の精神状態の方が保たない。それくらいなら、怒っていてくれるほうがずっとマシだ。 「それに、今日は魚の日だから。黒姫持ちだった俺には嘘つく権利が山ほどあるわけで」 「…………は?」 「『は?』じゃないよ。おまえ、パティシエ目指してるのに『四月の魚』も知らないの?」 「えっと。確かフランスでやる…………っ!」 ようやく思い至ったのか、良守の目が見開かれた。 「今日、エイプリルフールかよっ!」 「そのとおり」 おもむろに頷いてやると、良守は「うわあぁっっっ」とか叫びながら頭をかきむしり始めた。 そのあまりの勢いに面白くなって「あ、ハゲ」と呟いてやると、掻きむしる手を止めた良守が据わった目で睨み付けてくる。 「ハゲはそっちだろうがっ!」 「いや、俺は刈ってるだけだから。放置しておけば、伸びる」 「放置するつもりなのかよ!」 「そうだなぁ。坊主のふりする必要もうないし。その方が就職に有利かもねぇ」 適当に紡いだ言葉に、ピクリと良守が反応した。 たぶん、就職の言葉に反応したのだろう。この分だと、このネタでしばらくは引っ張れるかなぁと思っていたところに、予想外の言葉が掛けられる。 「……坊主のふりしてたのか?」 確かに、あの家の中では自分だけ特異な髪型だったとは思うが、手間が掛からない上に似合っているのだから問題はないと思うのだが。 いったい何がそんなに不思議だったのかと内心で首を傾げながら、正守は答える。 「ん? いや、ほらだってさ。『妖怪退治してます』って言った時に、それなりの格好してた方が普通の人には納得してもらいやすいだろ?」 「そりゃ、まあ…………」 「神官服はさすがに動きにくいし」 その言葉に目を見開いた良守が、次の瞬間、盛大に吹き出した。 どうやら、烏帽子直垂姿を想像したらしい。確かに、自分でもそれはちょっとなと思うが、そこまで笑うことはないんじゃないだろうか。 そう思いながら、良守の頬に手をやって……むにゅっと引っ張る。 予想以上に柔らかい頬の感触に離したくない思いに駆られて引っ張り続けていたら、思いっきり手を叩かれた。 「痛いなぁ」 「そ、それは俺の台詞だぁっっっ!」 涙目になりながらそう叫んだ良守は、少し赤くなった頬をさすりながら続ける。 「なんで、兄貴はそうなんだよ! 少しはいたわりの心ってものを…………」 「いや、それ無理だから」 「即答かよっ!」 「うん。だって、俺にはもう良心がないし」 サラリと告げると、良守が絶句したままこちらを凝視している。 それにニッコリと微笑んでやりながら正守が口を開く。 「黒姫が調伏したあやかしじゃないことは知ってるな?」 「え、ああ……」 「彼女は、俺の心の内から生まれたんだ。その時、実は二匹だったんだよねぇ。もう一匹は全身が真っ白だったから白姫と名付けた」 「えっと…………」 「ところがだな、白姫は『そんな酷いことをしてはいけない』とか『可哀想じゃない』とかいろいろうるさくてなぁ」 「…………」 「つい思いあまって、滅してしまったわけなんだが」 「…………なぁ、兄貴」 妙に思い詰めたような顔の良守に「ん?」と返すと、縋るような眼差しで尋ねてきた。 「嘘だよな? 今日、エイプリルフールだから、俺のこと担いでるんだよな?」 「ん〜〜? どうだったかなぁ?」 「嘘でもいいから、嘘だって言ってくれっ!」 ガクガクと揺さぶられながらの台詞に、さらりと答える。 「んじゃ、嘘」 「うわぁっっっ〜〜嘘くせぇ!」 「や、だっておまえが嘘でもいいからって言ったじゃない」 「マジに否定してくれ、頼むからっ!」 「って、どれを?」 「白姫の話に決まってるだろ!」 自分に良心を求める弟の言葉に、正守が心の中で苦笑する。 そんなもの、滅するまでもなく最初から生まれ出てこなかったのだが。 「ああ。白姫の話は嘘。黒姫は最初から一匹で出てきたよ」 「…………よかった。マジでよかった」 心の底から安心したらしい。 ヘタリと床に座り込んでしまった弟に、正守は続けた。 「料理が出来てるのも本当。冷める前に食べよう」 「お、おう」 言いながら立ち上がった良守が、鼻をクンと鳴らして呟く。 「パイの匂い?」 「ああ。今日の夕食は、白身魚のパイ包み焼きだ」 「…………兄貴がそれ作ったのか?」 どうやら、同居の件で騙したことはもう良いらしい。というか、忘れてしまったのだろう。 信じられないという顔で呟いた良守に、正守が笑いながら「今日は『四月の魚』の日だからな」と答えたのだった。 |
07'08.27.初稿 |