ウサギ狩りのススメ
 その夜、正守は虫の声を肴に濡れ縁に座って酒を呑んでいた。

 食堂のほうからは、子供たちの騒ぎ声が響いてくる。途切れ途切れに聞こえてくるその内容は、昼間みんなで作っていた月見団子を誰かがつまみ食いしたとかしないとかそういうことで、「お月様に備える前に食べるなんて!」という亜斗羅の声と泣き声で締められたところを見ると、つまみ食いをしたとおぼしき子が鉄拳制裁を受けたらしい。

 行けば子供たちが歓迎してくれることは解っていた。

 だが、何となく今晩は一人でいたかったから、自室に留まっている。
 別に入ってくるなと言った覚えなどないのだが、いつの間にか、正守の私室があるエリアには誰も立ち入らないことが不文律のようになっていた。
 おかげで、正守はこの大所帯の夜行の中で、唯一孤独を楽しむことができる環境にいたわけだ。まあ、世界を遮断する方法など正守にはいくらでもあったのだが……それは言わぬが花というものだろう。

 それにしても、美しい月だ。

 珍しくも純粋にその美しさを愛でる気持ちで、正守は月を見上げた。
 満月はあやかしに力を与える。熱を持たぬ、夜を象徴するその光は、彼等にとって特別なものらしい。
 そのため、満月の晩には大抵の場合あやかしが暴れ回り、実行部隊である夜行はその対処に追われるのだ。そのため、満月の晩にこうして悠長に過ごすことができるのはほぼ奇跡。もしかしたら、二度とこんな晩は訪れないかもしれない。

 そう思いつつ杯へと視線を落とした正守の思考は、当然のことのように烏森へと流れていく。

 たぶん、今晩の烏森は大盛況だろう。
 あの地では、案外こんな晩には大物は動かない。だが、その代わりというように、月の光に浮かれ騒いだ小物たちが大挙して押し寄せるのだ。

「怪我しなきゃいいが……」

 呟いて、正守は自分の台詞に眉を顰めた。

 今の良守の実力を、自分はちゃんと解っている。数がいくら多くとも、小物ばかりであれば怪我一つせずにしのいでみせるだろう。
 なのに、こんなことを口走るとは…………。

「酔ったか?」

 満月の晩ということで、いつ緊急要請が来ても対応できるようにと酒の量はセーブされている。実質、ほとんどザルというよりはワクなので、こんな量では酔うはずもないのだが…………深く考えるとまずいことになりそうなので、とりあえずその辺りで話を納めよう。

 などと考えていた正守の視界の隅を、何かが走り抜けた。

 三歳くらいの子供が前傾姿勢で一所懸命走っている。
 そんな感じなのだが、夜行の中にここに無断で入って来る子供がいるはずはない。それに、その何かには普通の子供にはないものが付いていたような…………。

「結」

 裏会の敷地内に滅多なものは入ってこないと思うが、確認しないことには気になって仕方がない。
 そう思って『それ』の周りに結界を張ったのだが…………。

「うわぁっっっ!」

 何やら聞き覚えのある声が、結界内部から聞こえてくる。
 いったい何だと思いながら近づき、そこにいたものを認めたとたんに正守は呆然と立ちつくした。

「良守……?」

 じゃないことは解っているのだが、そう呟かずにはいられない。
 そこにいたのは紛れもなく良守だった。ただ、ミニチュア版な上に頭にはウサギの耳が付いていたが。

「何するんだよ! 出せよっ!」

 そう叫ぶ声も、良守そのもの。
 だが、良守は十四歳で、たぶん今は家で仮眠を取っている時間帯で、つまりこの場所にいるはずもなく、何より弟にはウサ耳なんてついてない。

「…………悪酔いしたかな? 酒に変な混ぜものでも入ってたか」

 現実逃避するように呟き、くるりと背を向けた正守にウサ耳付きミニチュア良守が叫んだ。

「おい! 出せよっ!」
「時間は早いが、寝るか…………」
「出せってば! このままじゃ遅刻するっ!」
「ウサギ……遅刻……不思議な国の良守…………?」
「寝言ほざいてないで出せぇっっっ!」

 あまりに煩いので、無視することもできずに振り向く。

 改めて見ても、やっぱり良守だった。サイズは三歳児だが、当時の顔立ちではない。子供っぽく丸くなってはいるものの、今の良守の顔だ。
 服は御丁寧にも方印付きの黒の和服。足下は黄色のスニーカー。
 でも、頭にはウサ耳。よくよく見れば、尻には丸くてふわふわのしっぽもついている。

「あやかしか? 良守に変化してる?」
「誰があやかしだ! オレは嫦娥様に仕えている卯兎だ!」

 叫んだ後、卯兎と名乗ったウサ耳ミニチュア良守はしまったという顔をして、両手で口を押さえた。
 どうやら言ってはいけないことだったらしい。

「嫦娥? 中国の伝説の仙女か? 夫がもらった不老不死の薬を盗み飲んで、一人で月に暮らしてるっていう?」
「わー! わー! わー! 忘れろ! おまえは何も聞いてない!」
「確かヒキガエルの姿になったって話だったな…………」
「それは、人間が勝手に付け加えた話だ! 嫦娥様は大変お美しくていらっしゃる!」

 叫んだ後で、またしても「今のナシ! 忘れろー!」と叫んで手を振り回し始めた卯兎に、正守は「そんなことより」と呟いた。
 その言葉に、卯兎が過敏に反応する。

「そ、そんなこと、だと! 嫦娥様のことを『そんなこと』とはどういうつもりだぁっっ!」
「おまえが俺たちに仇なすあやかしでなければ、主人が誰だろうとどんな顔だろうと別に興味はない。それより……なんでおまえは良守の姿をしてるんだ?」

 その言葉に、「絶世の美女である嫦娥様に興味がないなんて変だと思ったら、やっぱり……」などとブツブツ呟いていた卯兎が、尋ね返してきた。

「オレ、おまえには良守って人間の姿に見えるんだな?」
「……どういう意味だ?」

 正守の声が僅かに剣呑な響きを持っていることにも、その眉間に皺が寄っていることにも気付かず、卯兎は胸を張って答える。

「オレは、その人間が会いたいと思っている相手の姿に見えるんだ!」
「…………」
「その方が、見逃して貰いやすいだろうって嫦娥様がおっしゃって…………」

 言った後でまたしてもあわあわし始めた卯兎に、正守が暗い声で尋ねる。

「つまり、おまえは、俺がバニーなコスプレをしたミニチュアな良守に会いたいと思っていると……そう言いたいのか?」
「え? あ……えっと…………」
「そうか。そうか」

 言いながら右手を挙げたそのポーズの意味は解らなくても、ヤバイ雰囲気は解りすぎるくらい解ったのだろう。
 ぱたぱたと手を振りながら叫んだ。

「ち、違う。小さいのも耳としっぽを隠せないのも、オレの力が足りないせいで……」

 言いながらしゅんと耳を垂らしたその姿に、ちょっと哀れになって正守は手を下ろした。

 確かにこの姿でしょんぼりされると、情けを掛けたくなる。そういう意味では、相手の会いたい姿に見え、その上ミニチュアサイズというのは保身のためには良いアイデアなのかもしれない。
 下手な相手だと、捕まえられた挙げ句に閉じこめられてしまいそうな気もするが。

「も、もう少し大きくなったら、ちゃんとした姿になれるんだ。耳もしっぽも隠せるし、姿もちゃんとフルサイズに!」
「そうか、そうか」
「し、信じてないなぁっっっ!」
「信じてる、信じてる」
「うううっっ」

 涙目になって睨み付けてくる姿は、えらく可愛い。

 だが、これをフルサイズでやられたら……と、想像し、想像した姿がやっぱり可愛く思える自分に、ちょっと正守は呆れた。
 酒を呑みながら弟に会いたいと思っていたり、十四歳になった弟を可愛いと思ってみたり。
 やっぱり、最近の自分はちょっとどこかおかしいらしい。

 そんなことを考えながら、ふと思いついて正守は結界の中でいじけている卯兎に声を掛ける。

「なぁ。おまえ、ちょっと右の掌見せてみて?」
「右の掌?」

 カクンと首を傾げつつも、卯兎は指示通りにこちらに掌をかざしてみせた。
 姿形は良守だが、彼よりよほど素直らしい。そう思いながら見た掌には……何の印もなかった。ごく普通の右手だ。
 それを見たとたんに無表情になった正守を見て、卯兎が軽く首を傾げる。

「えっと。もしかして、『良守』には、神やあやかしに付けられた刻印が右手にあったりするのか? そういうのは、この身には写らないぞ」
「…………そうなのか?」
「ああ。オレの姿はおまえの記憶によるものだけど、オレは嫦娥様に仕える身だから、他の者が付けた刻印はこの身が拒否するんだ」

 その言葉に、ふと思いついて正守が呟く。

「……ということは、良守が他の神やあやかしに気に入られれば、印は消えるってことか?」
「優先権は、先に刻印を付けた者にある。だけど、後から望んだ者の方が力が強ければそっちが優位だな。それと、刻印を付けられた側の意識も関係してくる」
「付けられた側?」

 予想外の言葉に目を見開いた正守に、卯兎は大きく頷いてみせた。

「ああ。付けられた側が嫌がってれば、拘束力は弱まる。あるいは、後から来た者のことが凄く好きだったりしてもだ。刻印は別に一方通行のものじゃない」
「ふむ」

 方印は、烏森からの求愛の印。
 だが、正統継承者がそれを拒み、他の力あるあやかしか神が強く望めば…………。
 真面目な顔で考え込み始めた正守に、卯兎が小首を傾げる。

「おまえ、その良守って人のこと奪いたいのか?」
「は?」

 言われた言葉のショッキングさに思わず目を見開いた正守をよそに、卯兎はうんうんと頷いている。

「だよなー。じゃなきゃ、オレがその人間の姿で見えるハズないし!」

 何か認識したくなくてずっと無視してきたものが、今、目前で遠慮会釈なく晒されているような気がする…………。

 月夜に酒を呑みながらふと思い出し、無意識に会いたいなと思い、大丈夫だと解っているのに、怪我をしていないかと心配になって……奪いたいかと問われると、胸が高鳴る。

 ああ、そうだ。
 自分は、良守が好きなのだ。

 血の繋がった実の弟というだけでも困難極まりないのに、相手はこっちを疎んじている。
 それだけではない。良守は、考えるより先に走り出す性質な上に、勘だけは鋭いので、いつだって危険のど真ん中に突っ込んでいく。自分を省みずに誰も彼も守りたがり、そのせいで満身創痍。なのに、それを少しも反省しようとしない。

 そんな相手を好きになるのは、あまりにも心臓に悪いではないか。
 だからこそ、気付かないよう。自覚しないように注意深く気を逸らしていたのに…………。

 思わずじっとりとした視線を向けてしまったのだが、卯兎はといえば、まるで気付いた様子もない。
 それどころか、にっこり笑って言い切ったのだ。

「大丈夫! おまえ、額に月の印付いてるし! きっとできる!」

 何の根拠もない応援だ。が、何となくほのぼのとはする。
 彼にとってみれば、額に月のマークが付いているというのは十分な根拠なのだろうということは感じ取れるし。
 それに、良守を烏森から奪うというのは……何となく気に入った。

 選ばれなかったなどというのは別に今更な話だし、今となっては選ばれても困る。だが、あの地で過ごした十五年間や良守との関係をこんなに複雑にした原因は、あそこにあることは確かで。そう考えると、烏森には遺恨がたっぷりとある。良守だって、正統継承者であることをあんなに嫌がっていたのだから問題はないだろう。

 そう決めてしまえば、驚くほど気が楽になった。

「つまり、良守に俺を好きにならせる。俺も烏森を越える力を持つ。それでいいんだな?」
「おう!」

 元気よく答え、その後で天を見上げた卯兎は慌てた様子で再び結界を叩き始めた。

「ここから出してくれ! 帰れなくなる!」
「…………?」

 意味が解らぬものの、どう見ても危険なあやかしではない卯兎一人くらい解放しても大丈夫だろうと判断して、「解」と呟く。
 もし何かあっても、すぐに結界で囲んでしまえばいいのだし。

 そう思いながら見ていると、卯兎は「帰れなくなる」と叫んでいたわりにすぐに走り出すこともせず、何かを懐から取り出した。
 そして、確認するようにそれを見てホッと息をつく。

「良かった〜。潰れてない」
「…………もしかして、月見団子を盗ったのはおまえか?」

 先刻の騒ぎを思い出してそう尋ねると、卯兎はぷくっと頬をふくらませて反論してきた。

「もともとあれば嫦娥様に捧げられたものだ。盗んだんじゃない! それに、子供がつまみ食いしてたのも本当だ!」
「そうか」

 冤罪で殴られたわけじゃないなら別にいいか、と正守が頷く。
 一個食べただけなのに二個食べたと怒られたのは気の毒かもしれないが、たぶん一個でも二個でも罰は変わらなかったろうし。
 そんなことを考えていた正守の傍らで、卯兎がハッとしたように叫んだ。

「オレ、もう行かなきゃ!」

 言葉と同時に走り出したその背に思わず伸ばそうとした手を、何とか正守は押さえ込む。

 卯兎を捕まえたかったわけではない。
 当然だが、その後ろ姿が良守そのもので、駆け出していくその背を押しとどめたい誘惑に駆られたのだ。すぐに、ひらひら動く長い兎の耳と、揺れるしっぽに気付いたから何とか押しとどめることが出来たのだが。

 卯兎は、縁石を蹴って池の上へと身を躍らせた。
 飛び込むつもりかと思わず身構えた正守の視線の先で、卯兎は水面に映った月の影の上に着地、そこで今度はまっすぐ上へと飛び上がる。

 水面はピクリとも動かない。

 結界師の自分がそんなことを思うのも何だが、物理現象を無視した現象だ。いったい何が起こってるのだろう?
 首を傾げている正守に、一瞬だけ振り向いた卯兎が叫ぶ。

「おまえ、後で水に映ったお月様覗いてみろ!」
「は?」

 正守の疑問を無視して、卯兎はまたもや水面を蹴り上げる。
 凄い勢いだった。文字通り宙に飛び上がった卯兎の姿が、冴えわたった月の光の中に溶け込んでいく。

「…………!」

 一瞬のうちに、卯兎は消えていた。まるで、総てが夢だったかのように。

 確認のため、池に近づいてみた。水面はいつものように僅かに揺れて、先刻の鏡面のような月の姿が嘘のようだ。
 白昼夢でも見ていたのか、それともやはり悪酔いか。

 無理矢理自分にそう納得させようとした正守が視線を池から外そうとした瞬間、まるで何か術にでも掛かったように水面に映った月が完全なる円を描く。

「…………っ!」

 凄まじい力で引っ張られた。
 慌てて自分の周りに結界を張るのが精一杯。次の瞬間には、池の中に引きずり込まれてしまう。
 と、次の瞬間、まるで吐き出されるように宙に放り出された。

「……いったい何なんだ」

 何とか空中で体を固定して呟き、辺りを見渡して絶句する。

 あまりにも見慣れた情景だ。真下に見えるのはプール。どうやら、月の影から月の影へと飛ばされてきたらしい。
 これで、夢ではないことは実証されてしまった。

 さて、どうしよう。

 そう思っていた正守の目が、こちらに駆けてくるあやかしの姿を捕らえる。

「結」

 ほとんど条件反射のようにそれを捕らえた瞬間、ぱたぱたと足音を立てて駆けてくる音が聞こえてきた。

「追いついたぞ、てめぇ……って! 兄貴っ!」

 嫌そうな声。怒ったような顔。
 紛れもなく良守だ。十四歳の標準より少し小柄だが、別にミニチュアサイズなわけでもなく、ウサ耳もしっぽもついていない本物の。

「何しに来たんだよ?」
「いや、俺にもちょっと解らなくて」
「…………はぁ?」
「ちょっとアリスな気分だね、こりゃ。ウサギを追ったらここに来るとは……」
「何言ってんだ?」

 声の調子がかなり剣呑なものになってきている。
 これでこそ良守と思いつつ、それが何となく寂しいような気もして。
 複雑なそれこそが、相手を好きだという証拠なのだろう。

「あやかし追ってたら、飛ばされたみたいなんだよね」
「飛ばされた?」
「空間と空間を繋いだんだろうけど……まさかそんなことまでしてのけるとは」

 たぶん、満月の力を借りた特別な術なのだろう。特別サービスで良守のいるところに送ってくれたというところか。

「兄貴……おい! 大丈夫かよ? 頭でも打ったのか?」

 こみ上がってくる笑いを堪えるために俯いていたのを誤解したのか、良守が駆け寄ってくる。

 その姿に、一瞬ウサギ耳としっぽを持っていた小さな良守の幻が重なった。
 ああ。そうだ。
 あれは、呪われた茨の森に囚われた小さなウサギ。
 あれを、この地から奪い取ると自分は決めたのだ。
 そのために必要なのは、大きな力。それと…………。

「兄貴?」

 疎んじている兄でも、様子がおかしいと心配してしまう。
 まずは、その優しさを利用させてもおう。
 考えてみれば、疎まれているというのは、無関心でいられるより、皆と同じ程度の好意を向けられているより、スタートラインとしてはよほどいい。

「良守、ちょっと話があるんだけど……手伝うから、烏森さっさと終わらせて帰ろう」
「話?」
「ああ。大事な話だ」
「……解った」

 珍しくも意地を張らずに答えたのは、どうやら、その話が正守を烏森まで飛ばしたあやかしに関することだと思ったかららしい。
 少し離れたところでこちらを窺っていた斑尾の元に駆け寄っていた良守が、そう説明しているのが聞こえる。

 それにくすりと笑って、正守は上空に輝く大きくて丸い月を見上げた。
 その表面には、餅つきをしているウサギの姿。
 それが、自分にエールを送ってきてくれているような気がする。

「さて、頑張りますか」

 そう呟いて、正守は立ち上がった。
07年十五夜記念