鬼は外
 仮眠から正守を目覚めさせたのは、不規則な軽い音だった。

 何か軽くて固いものが壁か地面にでもぶつかっているように聞こえるそれに、「雹でも降っているのだろうか?」と思って瞼を上げたところに、苛立ったような亞斗羅の声が響いてくる。

「コラ! 離れはダメだって言ったでしょ!」
「え〜〜。でも、全部やらなきゃ……」
「頭領は何が来たって自分で始末できるんだから、いいの! それより、静かにしなきゃダメでしょ。寝てるんだから!」
「……は〜い」

 返された声は不満そうなものだったが、こんな時間に寝ているということは、大きな仕事に備えているか、あるいは疲れて休んでいるかのどちらかだと解っているのだろう。
 パタパタと足音が遠ざかっていく。

 どうやら、さっきのは子どもたちがたてた物音だったらしい。
 そんなことくらいで怒ったりはしないし、別に大怪我をしたわけでも毒を受けたわけでもないのに、いったい亞斗羅は何をそんなに苛立ってるのか?

 そう思った正守の耳に、遠くその声が響いてくる。

「おにはそと〜」
「ふくはうち〜〜」

 一瞬、体が強張った。

 彼等に、普通の子どもならごく普通に体験するようなことをやらせてやりたいと望んだのは自分だ。
 それを受けて、亞斗羅はこの行事も子どもたちに体験させることにしたのだろう。
 だが、夜行にいて、「鬼は外」という言葉に何の感慨も抱かぬ者などいるはずもない。

 異端は去れ。
 まつろわぬ者は去れ。
 奇妙な力を使う、自分たちに理解できぬ者は去れ。

 ここは、そんな言葉や圧力でもって追い出された者たちのたまり場だ。
 亞斗羅自身は自分の境遇を嘆くことも悲しむことはないようだが、異端者として家族から捨てられるようにして夜行へやって来た子どもたちが、無邪気にその言葉を口にすることが耐え難いのだろう。
 それが、たぶん苛立ちになって声に滲み出てしまっていたのだ。

 自分が子どもたちに付き合ってやれれば良かったんだが。

 そう思いながら本部内の気配を探ってみれば、いつも以上に人気がない。耐え難くて逃げ出した者が多いのだろう。

 気持ちは解らないでもなかった。
 子どもの甲高い声で無邪気に発せられたあの言葉には、撒かれている大豆と同じほどの……いや、もしかすると、それ以上の力が秘められているのかもしれない。

「おにはそと〜〜」

 記憶の中に谺する声。
 その無邪気な響きが、冷厳に自分に告げたのだ。「正統継承者を傷つける鬼よ、消え失せろ」と。

 そう。あの時の自分は鬼だった。
 性のなんたるかも知らなかった幼い弟を蹂躙し、思うがままに喰らっていた。
 怪我をしないように、痛みや苦しさよりも快楽を感じるようにと気を使ってはいたが、それは愛情や憐れみからではなく、単に、自分が何をしているのかが発覚し、その行為が続けられなくなることが嫌だったからだ。

 怯えた良守は必死に自分を避けようとしたが、同じ家に住んでいる状態でそんなことができるはずもなく。結局、彼にできたのは、反抗的な態度を取ることくらい。
 だが、全身の毛を逆立てて威嚇している仔猫のごとき態度はますます自分を煽り立てただけだった。

 欲望に目が眩み、思い返せば随分とあからさまなこともしていたと思う。
 祖父や父、毎夜、良守と共に烏森を守っていた時音にバレなかったのは、単に運が良かっただけだろう。あるいは、自分に対する信頼が大きすぎて、良守の無言の訴えが見逃されてしまったのか。

 正気に戻ったのは、珍しくも自分と良守以外の誰もいなかった節分の夜。
 良守が気絶してしまうまで抱いたにもかかわらず、まったく衰えない欲望に誘われるままに手を伸ばした正守の耳に、遠く子どもたちの声が聞こえてきたのだ。

 無邪気な声で放たれる、「鬼は外」の響き。
 その瞬間は、どうして自分の手が止まったのか解らなかった。
 解らぬままに視線を外へと向け、窓に映った自分の顔を見た瞬間、正守は呻いたのだ。

 鬼がいた。

 正統継承者である弟への妬み。
 どんなに努力しても自分はこの家にとっては必要ない者なのだという僻み。
 望まれた存在である良守を思うがままに蹂躙したいという欲望。
 支配することで、溜飲を下げようとした浅ましさ。

 そんなものが、節分の夜の闇に染まった窓にはっきりと映っていたのだ。

 家を出ようと決意したのは、その時だ。
 自分は既に鬼と化した。ならば、この家を出なければならない。
 留まれば、取り返しの付かない事態を招くだろう。

 そう判断し、予定していた進学を取りやめ、裏会に行くつもりだと告げた。
 そんな自分に祖父は怒り、父は悲しみ、良守は…………彼はどんな顔をしていただろう?
 あの日以来、まともに弟の顔を見ることができなかった自分の記憶の中にはその情景は残っていない。

 その後、幾度かは帰省はしたものの、自分だけでなく良守の方も顔を合わせるのを避け続けていたせいか、鬼は目覚めることもなく。
 もしかしたら、あの晩に自分の内の鬼は祓われ、浄化されたのではないだろうか。
 そう思っていた自分の考えが甘かったことは、黒芒楼の時にはっきりした。

 視線を向けたとたんに強張る顔。
 近付くなと唸っているかのような態度。
 にもかかわらず、その目には怯えの色が滲み、声は震えている。

 そんな良守の態度を目の当たりにした瞬間、自分の内の鬼があっさりと目覚めたのを感じた。

 目前の獲物を引き倒し、その身を引き裂いて、喰らいつきたい。
 痛みと快楽で泣かせ、流れ出た血と涙を啜り、欲情で穢し尽くしたい。

 湧き上がってきたその衝動を、正守は必死に抑え込んだ。
 自分の内の鬼に負ければ、弟と共に地獄に堕ちることになるだろう。

 その誘惑はひどく甘く、強く自分を惹きつけたが、それに屈してしまうわけにはいかなかった。
 今の正守には守るべきものがある。属していたはずの場所から祓われてしまった鬼たちを集めて作った、『夜行』という名の組織が。

 その思いだけで何とかその誘惑を撥ね付けたというのに、予想外にも墨村の接点はあれから増え続けるばかりで、自分の内に眠る鬼のコントロールがひどく難しくなってきているのだ。

「おには〜〜そと〜〜」

 守べきもの。自分を人へと押しとどめる重石の一部である子どもたちの声が、遠くから聞こえてくる。

 彼等の言葉でこの鬼が祓われてくれたならば、どんなに楽なことだろう。
 そう思いながら、正守はゆっくりと瞼を閉じた。
09'02.03.初稿