夏越の祓
 雨が降っていた。

 梅雨だから当然と言えば当然なのだが、鬱陶しいことは変わりない。
 そう言えば、雨の日が嫌いになったのはいつだったろうと、ぼんやりと良守は考えた。

 昔、子どもの頃には、雨の日だって楽しかった。いつもなら絶対に身につけないような明るい色の長靴を履いたり傘をさすのも嬉しかったし、水たまりに突っ込んでいって水しぶきを上げさせるのも面白かった。
 カエルやカタツムリが元気そうなのも、わくわくしていたように思う。
 それが嫌になったのは……たぶん学校に行くようになってからだ。

 運動会や遠足なんかの、ずっと前から楽しみにしていたものが雨で中止になることを知って、雨は嫌なものなのだという考えを刷り込まれ、烏森に行くようになってからはますます嫌いになった。
 雨に濡れると装束は重く身を縛る。そういう晩には何故かあやかしも多く来て、余計な体力を使わされた。家に戻る頃には体の芯まで冷え切っていて、熱を出したことも一度や二度ではない。

「この分じゃ……今年の七夕も雨かなぁ」

 以前は短冊に書く願い事以外には気にしたことがなかった七夕の天気を気に留めるようになったのは、兄と想いを通じ合わせてからだ。

 一年に一度しかチャンスがないのに、雨が降れば会えなくなる。

 自分たちがそこまで酷い状況に置かれているわけでもないのだが、何となく身につまされるというか…………。

「良守」

 そんなことを考えていたところに掛けられた声に、良守は身を強ばらせ、おそるおそる振り向いた。

「父さん?」
「偶然だねぇ」

 微笑みかけられて、言葉を失う。
 兄とああいう関係になったことを後悔したことなど一度もないのだが、肉親に対してはやはり後ろめたい。
 特に、子煩悩な父の前で兄のことを考える時には、常に申し訳ないという気がするのだ。

「そ、そうだね……」
「良守? どうかしたのかい?」
「あ……いや。あ、あのさ……珍しくねぇ? こんな時間に…………」
「ああ。醤油切らしちゃってたことに、さっき気付いたんだよ。買い置きがあったと思ってたんだけどねぇ」

 苦笑しながら父が持ち上げた買い物袋の中には、確かに醤油が一本入っていた。

「ふ〜ん……」
「良守も今日はちょっとゆっくりだね」
「あ……うん。たいしたことあったわけじゃないんだけど…………雨降ってるせいだよ」

 そう。雨が降っていたからだ。

 結界さえ張っていれば、雨が降ろうが雪が降ろうが昼寝スペースを確保することくらいは容易いのだが、中の湿度や温度まで調整するのが面倒で、つい教室で寝ていたら、罰として居残りさせられてしまったという訳である。

 正直にそう言っても、父は怒るどころか「毎晩大変だからねぇ」と言ってくれると思うが、だからこそあまり詳しくは言いたくない。
 そう思っての端的な説明に、父はにこやかに微笑んだ。

「そうだね。雨が降っていると、歩くのゆっくりになるもんね」
「…………」
「考えてみれば、こうやって一緒に歩くの久しぶりだねぇ」

 久しぶりどころか、記憶がない。
 物心付いた頃には父は利守にかかりきりになっていて、自分の面倒を見ていたのは兄だったからだ。

 もしかしたら二人で歩くのなんて十年ぶりくらいなのかもしれない。
 そう思いながら見上げると、父は「ちょっと寄り道しようか」と言って、見えてきた鳥居を指さした。

「……神社?」
「さっき見たら、茅の輪が置いてあったからさ。厄払いしていこう」
「茅の輪? 厄払い?」
「うん。夏越しの祓だよ。今日は6月30日だろ? 半年分の穢れを祓って、残り半年平穏無事で過ごせますようにって、茅の輪をくぐるんだ。良守は怪我が多いからさ、気休めだって解ってるけど…………」

 指さされた先は、しめ縄みたいなもので作った巨大な輪があった
 そういえば、毎年あれはこの時期に飾ってあったような気がする。祭りのための飾りか何かかと思っていたのだが、年中行事の一つだったのか。
 そう思いながら見ていると、先に立って父がそれに近付いていった。

「これが茅の輪。茅……葉が尖って鋭い類の植物、ススキとかチガヤなんかを編んで作ってあるんだ。葉が鋭い葉は剣に似ているということで、邪気を祓うと言われてるからね。子どもの日に菖蒲湯に入るのも同じ理由だよ」
「へぇ」
「僕には何もできないからね……気休め程度の意味しかないって解ってるけど」

 そう言って寂しそうな眼差しを向けられると、もともと後ろめたいものを感じていた良守が逆らえるはずもない。

「な、何もできないなんて、そんなことねぇよ! 父さんはいろいろ……」

 焦って言い募るその言葉ににっこりと笑った後で、父は茅の輪の説明を続ける。

「この輪を右足でまたぐのが一歩目。そのまま右に進んでぐるっと回って元の場所に着いたら、今度は左側。8の字を描くみたいにね。そして、また右側をぐるって回ったら終わり。やってごらん」
「あ……うん」

 背に父の視線を受けながら言われた通りに茅の輪をくぐっていた良守は、三度目に茅の輪をまたいだ瞬間に一気に世界が変わったことに気付く。

「…………え?」
「ようこそ。我が神域に」

 くすくすと笑いながらの声に振り向くと、一瞬前まで父だったはずのモノが自分のすぐ後ろに立っていた。
 神主さんが着ているような着物を身に纏い、手には扇を持った青年だ。
 父ではないということは、あの後ろめたさやら何やらは感じる必要がなかったもの。
 そう思ったとたんに怒りがこみ上げてきて、良守は強く青年を睨め付けた。

「おまえ……何者だ?」
「この神社の祭神」
「はぁ?」
「ちょっと頼みがあってね。悪いとは思ったけど、招かせてもらった」

 楽しそうなその口調にムッとして、良守は出口である茅の輪を探した。が、どういう訳か見あたらない。
 視線や表情で良守が何を探しているのか気付いたのだろう。この神社の神だと名乗った青年は、しゃあしゃあと続けた。

「穢れを祓うためには、左足で第一歩を。まずは右回り、次に左、そしてもう一度右にという順番で輪をくぐる必要があるんだよ。君は逆の順番で回った。なので、君の穢れは茅の輪の向こう側に。君自身でこちら側に来たというわけだ」

 人を騙して連れ込んでおいて、まるで反省の色のない相手に良守が呟く。

「……帰せよ」

 土地神を殺すと、いろいろとバランスが崩れて問題になる。
 それは知っているが、神社に祀られている神はどうなのだろう?
 そう思っていることが声音に滲んでいたのだろう。焦ったように青年が続けた。

「もちろん、頼み事が終わったら帰す。それに、この頼み事は君たちのためでもあるんだ」
「俺たちのため〜?」

 まるで信じてないという口調に、青年は「本当だ」と呟きながら扇で自分の周りの空間を指し示す。

「ここにある穢れがまとめて烏森に行ったら、面倒なことになる。その前に何とかした方がいいだろう?」
「はぁ? それを何とかするのが、アンタの仕事なんじゃねぇの?」

 怒りまくっているせいか容赦のカケラもない良守の台詞に、青年が大きな溜息をついた。

「私だってね、ちゃんと期日通りに夏越しの祓えをしてくれたらこんなこと君に頼むハメに陥らなかったんだよ」
「期日通りじゃないって……半年分だろ? だったら、今日で…………」

 言いかけて気付く。
 期日通りなのにそうじゃないということは、つまり暦の問題だ。
 良守が気付いたことを悟ったのだろう。青年は大きく頷いて続けた。

「そう。本来、夏越しの祓えは旧暦の6月30日。梅雨が開けた後に行われた行事なんだよ」
「……いや、でも、大晦日だって今は新暦でやってるんだから、旧暦にこだわる必要は」
「問題は天気なんだ」

 良守の反論に、青年はきっぱりと言い切った。

「…………天気?」
「梅雨の時期はじめじめしてるだろう?」
「そりゃ梅雨だし」

 何を当然のことを思いながら言い返すと、青年は真面目な顔で続ける。

「雨が降ると、鬱々するだろ」
「それが何だって言うんだよ?」
「増殖するんだ」
「は?」
「穢れっていうのはね、ちょっとカビに似てる。人が滅入っていたり、鬱々としていると増殖するんだ。茅の輪で切り取っても、しばらくは持ち主の気分を引きずっていてねぇ」

 大きな溜息をついて、青年は諦めたような笑みを浮かべた。

「私も一所懸命祓うんだが、大本を祓った時にはそこから派生した小さな穢れがぽろぽろと溢れ落ちてね。逃げまくるんだよ」
「逃げまくる……」
「ここは神域だからね。この中に留まってくれさえすれば、徐々に消滅していくんだけど……最近は世情が不安定になってるせいか、現の世に引っ張られるのが多くて。境界線のあたりでそこそこの大きさの塊が蠢いているという状態がずっと続いているんだ」
「祓えよ!」

 思わず突っ込んだ良守に、青年は「やってるよ。もちろん」と呟いた。

「やっても、やっても追いつかないんだ。ある程度、大きくなった時点で祓うんだけど、もともと小さなものの集合体だから、どうしても少しは取りこぼす。と、それがまた増殖してねぇ」

 遠い眼差しをされても、それはおまえの仕事だろうとしか言いようがないのだが…………。

「暦が変わって六十数余年。そろそろ限界なんだ。信仰が薄くなっているせいもあって、神域と現の世との境界線も曖昧になりつつある。このままだと、穢れが出て行ってしまいそうなんだよ。そして、出て行ったら、それはたぶん烏森に向かうだろう。より強く、大きくなることしか頭にないモノだからね」
「…………っ!」
「それを防ぐためにも、協力してもらいたい。こぼれ落ちる小物を君の結界術で滅していってほしいんだ」

 依頼の形を取っているが、ここに引きずり込んだ上に「烏森に行くかもしれない」発言では、強制と同じだ。

「解ったよ。やりゃあいいんだろ! やりゃあ!」

 自棄になって叫んだ良守に、青年はにっこりと笑って続けた。

「助かるよ。この子たちを補佐に付けるから」

 その言葉と共にどこからともなく現れたのは、くるくるの巻き毛も可愛い子どもが2人だ。
 頭には犬っぽい耳が、お尻からはふさふさのしっぽが生えている。よくよく見ると、片方の子にだけ小さな角が付いていた。

「『阿』と『吽』だ」
「狛犬かよ!」

 突っ込んだ良守を気にした様子もなく、2人はぺこりと頭を下げた。

「よろしくお願いいたしま〜す〜」
「お願いいたします〜〜」
「こちらでございま〜す〜」
「ご案内いたします〜〜」

 右手を阿らしき子どもに、左手を吽らしき子どもに引っ張られて連れて行かれた場所は…………凄まじいことになっていた。

 ありとあらゆるところに、黒くてウゾウゾしている小さな物体が走り回っている。
 時音が見たら例の虫だと思って大騒ぎすること確実だが、きちんと見れば、それが生き物ではないとすぐに解る。だが、気色悪いというか、見ていてあまり気分が良くないという点に置いてはよく似たもの。

「な、な、な、な、何だこれっ!」
「主から説明を受けてはおられませぬ〜か〜?」
「増殖した穢れにございます〜〜」

 その言葉に、良守は目を丸くした。
 確か増えてきたとは聞いていた。聞いていたが…………。

「多すぎだろ!」
「そうなのでございま〜す〜」
「なので、おいでいただいたのでございます〜〜」

 2人に揃ってそう言われてしまえば、抗議もできない。
 致し方なく、良守は右手を持ち上げて印を結び、意識を集中させた。

「結! 滅! 結! 滅! 結! 滅!」

 かつてカラスたちを相手にやった特訓を生かして、『それ』を片っ端から消していく。
 そんな彼を見て、2人が嬉しそうに手を叩いた。

「さすがでございま〜す〜」
「お見事です〜〜」
「褒めるのはいいから、おまえたちも働けっ!」

 補佐で来ているというのなら、少しは戦えるはず。
 そう思って叫んだのだが…………。

「は〜い〜」
「解りましたです〜〜」

 元気にそう答えた2人の手に、ぽんとハタキとホウキが出現する。

 まあ、ゴミみたいなものだから、掃除をするのと同じ感覚なのかもと思いながら見ていたのだが…………黒い物体はハタキとホウキを器用にすり抜けて、あっちにころころこっちにころころと移動するのみで、一つたりとも数を減らしていない。

「待つので〜す〜」
「消えなさい〜〜」
「…………」

 まったく役に立たないだけでなく、妙にほのぼのとしたその姿にやる気が萎えていく。
 思わず大きな溜息を落とした良守は、視界の隅にコロリと転がってきた黒い塊をほぼ条件反射で滅した。

「なんで俺がこんなこと……」

 呟くが、こんなものが烏森に現れることを考えたら、ここでどうにかした方がいいに決まっている。相手がこれでは、時音は役に立たないだろうし、烏森の力を得て巨大化したり増殖されたらたまったものではない。

「結! 滅! 結! 滅! 結! 滅!」

 それ以降は、ほとんど無心だった。
 半ば条件反射でそれを退治し続けてどのくらいの時間が経ったのか────ムチャクチャ疲れていることを考えれば、かなり長時間だったと思うのだが────気付いた時には、部屋の中から『それ』は綺麗さっぱり消えていた。

「すっきりいたしました〜ぁ〜」
「気持ちようござますぅ〜〜」

 何の役にも立たなかったが、とりあえず可愛いから目の保養にはなる。
 達成感と疲労感にぐったりしながら、嬉しそうにきゃわきゃわと騒いでいる2人を見ていると、祭神だと名乗った青年が現れた。

「終わったみたいだね。ありがとう」
「…………ああ」
「これで、あと数十年は大丈夫だろう」

 しみじみと語った祭神に冷たい眼差しを向けていると、さっきまでその辺りにいたはずの阿と吽が何かを持って駆け寄ってきた。

「どうぞで〜す〜」
「これをお持ちください〜〜」

 その言葉と共に差し出されたのは、笹で包まれた何かだった。

「これは?」
「甘いの〜〜」
「疲れが取れるの〜〜」

 見た目からしてケーキではさそうだなと思いながら、受け取る。と、それを見ていた祭神がにこりと微笑んで口を開いた。

「本当にありがとう。お礼に、望みを叶えてあげるよ」
「は?」

 もう二度と巻き込まないでくれれば、それでいい。と言おうとしたとたんに、ぐらりと体が傾ぐ。

「また何かあったら頼むね」
「冗談じゃねぇ!」

 叫んだ瞬間、頬に冷たいものが伝っていくのを感じた。
 気付くと、雨の中一人立っている。

「え?」

 慌てて辺りを見渡し、どうやら神社の鳥居の前に立っているらしいことに気付いた。
 幸いにも、周りに人影がない。

 ホッとしつつ傘を取りだそうとして、例の包みに気付いた。
 雨に当たらない木陰に移動して包みを開けると、三角形の和菓子が出てくる。下半分は白、上は葛で固められた小豆が載せられたものだ。

「疲れてるから、甘いのはありがたいけど……」

 ぱくりとそれにかぶりつき、良守が呟く。

「こういうの見ると兄貴に会いたくなるんだっての」

 そう言ったとたんだった。
 ポンという何か破裂したような音と共に、目前に兄が転がり落ちてくる。

「…………は?」
「何だ、いったい何が……良守?」

 不思議そうな兄の声。

「ここはどこだ? 何で、俺は…………」
「本物?」

 訳が解らないという顔で辺りを見渡している兄に、思わず良守は呟いた。
 先刻、父に化けた祭神に騙されたばかりなので当然の疑問だったのだが、兄にとっては問題ある発言だったらしい。

「どういう意味だ?」

 滅多に見ることがない。見たら最後、大変な目に合わされること確実の獰猛な笑みを向けられる。

「え? いや……だって、急に出て来たから……っ!」

 こんな笑い方ができる相手が偽物のはずはない。いくら神サマだって、こんな兄を真似ることはできないだろう。
 恐怖に顔を引き攣らせながらも何とか言い訳を口にしたのだが、それでごまかされてくれるほど兄は甘い相手ではなかった。

「だったら、出てくる言葉は『どうして?』とか『なんで?』だろ? 『本物』という言葉が出てくるってことは、偽物が出て来たってことじゃないのか?」

 心の中で悲鳴を上げながら、良守は雨宿りしていた木に背を押しつける。

「あ、兄貴のじゃなくて……っ!」
「ふ〜ん。じゃあ、誰の偽物が出たんだ?」

 一気に間合いを詰めてきた兄がそう尋ねてきた時だった。
 どこからともなく、声が響いてくる。

《望みは叶えたぞ》
「…………は?」
「今の声は誰のものだ?」
「え? あの……その…………」
「それに、その菓子。水無月だろう? 誰にもらった?」
「へ? これ水無月っていうの?」
「ああ。邪気払いの意味もある菓子だ」
「へぇ」

 さすが狛犬がくれるだけのことはある。
 そう思いながら囓りかけの菓子を見下ろしていると、不意に菓子を掴んでいた手を掴み取られた。

「…………っ!」

 菓子ごと、指が兄の口腔内に含まれる。
 一カケラしか残っていなかった菓子は、あっという間に兄に飲み込まれた。
 なのに、兄は指を口に含んだまま外そうとはしない。まるで甘い飴か何かのように執拗に舐られる。

「あに……き…………」

 蘇ってきた記憶に体の芯に熱が籠もった。
 引き寄せられるまま、その胸に身を投げ出す。

「何があったのか、じっくり教えて貰うぞ」

 耳元で甘く囁かれたその台詞に、良守はただ頷くことしかできなかった。
2008年夏越の祓記念