投瓜得瓊 |
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「ほら」 差し出されたのは、飴玉を思わせるまん丸な物体だった。 色は、メロンシロップというよりは抹茶シロップに近い緑。半透明のとろりとした色合をしている。 「え?」 「やるよ」 「やるって……なんで?」 「この前、ぼけの木の実くれたろ?」 「え? でも、あれは…………」 庭に大量になったからお裾分けしただけのことだ。 墨村家の庭には、祖父の先代だか先々代だかよく解らないご先祖様が植えたというぼけの大木がある。毎年実がなるわけではないし、なっても数が少ないことが多かったのだが、今年は枝が折れるんじゃないかと思うほどの量が付いたのだ。 だが、ぼけの実というのはそのままで食べても美味しくない代物で。 いつも程度の量なら、ジャムにしてケーキ作りに利用するのだが、さすがにこの量では使い切れない。パン食が普通の家なら保存しておけばいいのだろうが、墨村家では基本和食だ。 父がネットで果実酒にするという方法を調べてきたが、それだって、この家で酒を呑むのは祖父一人。その祖父は頑固な日本酒党なので、作っても無駄になりそうだ。 結局、お裾分けしようという話に落ち着いたのだが、今時、自宅でジャムを作ったり果実酒を作る家はそうはなくて。配れるところには父が配って歩いたのだが、それでもまだ実は大量に余り…………考えた末に思いついたのが兄のところだった。 夜行なら人数が多いから、ジャムにしろ果実酒にしろ、ちゃんと使い切ってくれるだろう。 そう思ったのだ。 父に連絡してもらってもよかったのに自分で電話をしたのは……まあ、あまり認めたくはないが、兄の声が聞きたかったからかもしれない。 『ぼけの木の実?』 「うん。今年は信じられないくらい実がなってさ。近所にお裾分けしても、まだ余ってて……」 『お裾分け? おまえが持っていったのか?』 急に声に剣呑な響きが混じったことに首を傾げつつ、良守が正直に答える。 「どこの家が果実酒やジャム作るなんて、俺が知ってるはずないだろ? 父さんが配って歩いたに決まってるじゃないか」 『そうか』 今度は、一転して機嫌の良さそうな声音だ。 いったい何なんだと首を傾げながら、良守は続けた。 「果実酒かジャムにするしかないみたい……」 『もちろん、もらうさ』 最後まで言い終わる前に、答えが返ってくる。 あまりにあっさりと返されたそれに呆然として、良守はもう一度繰り返した。 「解ってるのか? 果実酒かジャムにするしかないんだぞ?」 『大丈夫。全部食べるから』 「全部って……まさか、一人で食うつもりなのかよ!」 『もちろん。おまえがくれるものなんだから、ちゃんと食べるさ』 「…………っ!」 ひそめられた甘い声音で囁かれた言葉に、勝手に顔が赤くなっていくのが解る。 携帯から電話してよかったと、心の底から思った。誰もが通る廊下の電話でこんな顔をしていたら、何があったのかと聞かれることは確実だ。 「す…凄い……量なんだぞ! 見たら、絶対後悔する!」 『しないさ』 「する!」 『しないって言ってるだろ?』 「するって! くそっ。解ったよ。少し数減らしておく」 『減らしておくって……どうするつもりなんだ?』 「今日は老人会で雪村ん家のババアもいないはずだから、時音にでも…………」 『駄目だ』 今の今まで甘い声を出していたのに、不意に厳しくそう言われる。 「へ?」 『待ってろ。すぐ行く』 「ちょっ、ちょっと、兄貴っ!」 慌てて声を掛けたが、既に電話は切られた後で。 呆然としつつも、忙しい兄が来るはずないと自分に言い聞かせ。でも、あんな声で「駄目だ」と言われてしまっては、ぼけの木の実をもいで隣家に行くつもりにもなれず、ケーキ作りにいそしんでいたのだが…………五時間ほど経った頃に、ほとんど息せき切ってという勢いで正守が飛び込んできた。 「……マジで来たのかよ、兄貴」 呆然としてそう尋ねたのだが、正守はそんな弟の言葉など聞こえなかったように尋ねてくる。 「もう持っていったか?」 「え?」 「時音ちゃんのところに、ぼけの木の実」 「あ……いや。持って行ってない」 首をぶんぶん振りながらそう言うと、兄はホッとしたように息をついて表情を緩めた。 その顔があまりに嬉しそうで、いったい何なんだと思いながら尋ねる。 「そんなにぼけの木の実が好きなのか?」 「いや」 「じゃあなんで?」 尋ねながら、ちょっとがっかりする。 もし……もし来たら食べさせようと思って作ったケーキは、そんなにぼけの木の実が好きならと、そのジャムを使ったものだったからだ。 良守の表情でそれを悟ったのか、正守が苦笑しながらひょいとケーキを一切れつまんで口に運ぶ。 「美味い」 「え? あ、紅茶入れるから待ってろって! って、その前に水か!」 息せき切って来たんだからと水を出し、慌てて紅茶を入れ……台所で二人向き合ってケーキを食べた。 スポンジは上手く焼き上がってふわふわで、ジャムの酸味も、生クリームの甘さやホイップ具合も最高なはずだった。確かに舌から受ける感触はそう言っているのに、何故かあまり味がしない。 どうやら、自分は緊張しているようだ。 よく考えてみれば、こうやって兄と差し向かいで何かを食べたことなどない。二人きりで会う時は、いつだって慌ただしく…………。 記憶に思わず顔が赤らんでくる。 それを兄に気付かれる前にと、慌てて良守は口を開いた。 「ぼけの木の実、本気で全部持っていく気かよ?」 その問いに、正守が当然というように頷く。 「当然」 「いや、でもさ……マジに凄い量なんだって」 「それでも、全部持っていく」 「全部って……一人で持ち帰るのなんて無理だって!」 「じゃあ、とりあえず受け取らせてくれ。持ち帰るのは、誰か手伝いを呼ぶから」 「…………意味解らねぇ」 とりあえず見せた方が早いかと、良守は花ばさみとザルを持って庭へと出た。 件のぼけの木は、台所から出てすぐの場所に生えている。 花の時期以外は木肌の茶と艶やかな緑の葉以外は目立たないはずの木は、いたるところに黄色く色づいた実がたわわに付いていて、凄まじい状態になっていた。 「……これは凄いな」 「だから言ったろ」 半ば呆れつつそう答え、良守は重ねて尋ねた。 「で、いくついるんだ?」 「全部」 「は?」 「全部取ってくれ」 「……本気か?」 「本気だって言ってるだろ」 僅かに笑みを含んだ声に視線を上げると、正守は思わずどぎまぎするような目でこっちを見ていた。 慌てて視線を逸らして実を一つ手に取ったが、一度昇った血はなかなか下がらない。自分でも顔が赤くなっているのが解るんだから、たぶん兄にはバレバレだろう。 だが、珍しくも正守は何も言ってこなかった。 黙って、良守が実を取るのを見ている。 「ほら」 そんな兄を直視するのが嫌で、僅かに視線を逸らしたままそう言って実を差し出す。と、見なくても解るほどに嬉しそうな気配を漂わせて正守はそれを受け取った。 事ここにいたって、さすがに良守もおかしいなと思う。 「……ぼけの木の実って、何かあるのか?」 「何かって?」 「変だろ! 明らかに!」 視線を戻し、睨み付ける。 それに、ちょっと惚けた顔で正守は笑ってみせた。 「まあ、それは後でな」 「はぁ?」 「ともかく、ここに生えているのは全部貰っていくから」 にっこりと、何を考えているのか解らない顔で微笑まれる。 この顔でそう言われたら、その「後」が来るまで絶対に兄は口を割らない。 それを知りすぎるほど知っていた良守は、拗ねた顔でそっぽを向いた。 そんな弟に、正守が囁く。 「ちゃんと、その時が来たら教えてやるから」 「その時って……いつだよ?」 「う~ん。準備するのにちょっと時間掛かるだろうからなぁ。でも、それを手に入れたら、すぐに教える」 「それ?」 「その時までの秘密だ」 そう言って、兄はひどく甘い顔で笑ったのだが…………。 「えっと……これってもしかして、ぼけの木の実を渡した時に言ってた『それ』なのか?」 「ああ」 答えて突き出された掌の上から、良守が『それ』を手に取る。 予想より重く、ひんやりと冷たい。色合いからプラスチックか何かと思っていたのだが、どうやら石らしい。 「これ、何?」 「琅玕」 「ろうかん?」 聞き覚えのない単語に首を傾げる良守に、正守がにこやかに微笑みながら続ける。 「石の名前だよ。理科で習っただろ?」 「…………あ~」 実験の時以外はいつも寝ていたから、習ったかどうかさえ覚えていない。 なので、たぶんそんなことだろうと考えて習っているはずもないことを習ったと言った兄の思惑に、案の定気付くことなく、良守は視線を逸らした。 そんな弟に、うまくごまかされてくれたなと思いつつ正守が続ける。 「ぼけの木の実は果実酒にしてもらってるところだ」 「……やっぱり自分だけで飲むのかよ?」 あれだけ大量の実で作る酒の量はどれだけなのかと思いながら尋ねると、当然という顔で正守が頷く。 「求婚の印を他人に譲るわけにはいかないだろう?」 「…………は?」 「夜行の他のメンバーにも、恋人が求婚の印としてくれたものだと言ってあるから、飲めと言っても遠慮して誰も飲まないだろうな」 「きゅうこん?」 「プロポーズのことだぞ、もちろん」 信じたくなくて頭の中からわざと放り出していた単語を懇切丁寧に説明され、良守が声にならない叫び声を上げる。 「ぷ、ぷろぽーずっっっ?!」 「ああ。『ずいぶん古式なことしますね。きっと名家の方なんでしょうな』と、みんな感心していたぞ」 「名家…………」 「名家だろ? 異能者の一族の中じゃ、墨村家は有名だ」 なんかそんな話は影宮にも聞いたことがあるような……じゃなくて! 「どういうことだよ! ワケ解らねぇっっっ!」 ほとんど半泣き状態で兄に掴みかかった良守に、正守は「ははは」と笑い声を上げた。 「古代中国に、女性がぼけの木の実を男性に贈ってプロポーズし、それに応えるなら男は玉を返すという風習があってな」 「…………っ!」 予想もしていなかった答えに呆然としている良守に、正守は続けた。 「だから、おまえが誰かにぼけの木の実を渡さなかったのかと聞いたんだ」 「じゃあ、全部持っていったのも……」 「もちろん。おまえが誰かに持っていくのを防ぐために決まってるだろ」 馬鹿だ。 我が兄ながら、馬鹿すぎる。 だが、その馬鹿っぷりが嬉しい自分の方も馬鹿なんだろうと良守は思った。 「い、言えば……いいだろ? そしたら、誰かにやる時も父さんに渡してもらったのに」 「でも、教えたら俺にもくれなかったろ?」 そう言われて、言葉につまる。 確かに、説明されていたら実を渡すのを止めていただろう。だって、そんなの恥ずかしすぎる。 だいたい、よく考えてみたら自分はそのプロポーズの証である実をあんな大量に…………って! 「は、は、は、は…………」 「は?」 「刃鳥さんっ!」 「……刃鳥がどうした?」 「み、見てたじゃないか! 俺がぼけの木の実を兄貴に渡すとこ!」 あわあわしている良守を見て、僅かに体を強ばらせていた正守がふっと肩から力を抜いた。 「ああ、そういうことか。大丈夫」 「大丈夫? じゃあ、刃鳥さんは、ぼけの木の実を贈ったのは俺じゃなくて、誰かから預かったものを兄貴に渡したんだって思ってるってこと?」 一縷の望みをかけて尋ねた良守に、正守は少し考えた後で胡散臭げな笑みを浮かべて頷いてみせる。 「ああ。たぶん、そうだと思う」 「…………たぶん?」 「確認するのは藪蛇だ。プロポーズされたって話を、俺の嘘だと思っている可能性もあるし」 「…そ、そっか。そうだよな!」 「様子を見て、疑っているようならちゃんとごまかしておくから」 自信満々で言い切った正守の言葉に、良守が安心したように吐息をつく。 そんな弟の様子に、自分が弟に手を出したほとんど最初の頃から、刃鳥がそのことを気付いていることは一生黙っていようと、正守は心に決めた。 中国で玉と言えば、すなわち翡翠。琅玕とは、その中でも最高級のものを指す言葉で。 渡した色合いと大きさのものを求めるためには、月収三ヶ月分どころの話ではなく、ほとんど全財産を使わなければならなかったことも、当然気にするだろうから言わないでおく。 良守が手に取った瞬間にこっそり掛けておいた呪が完成して、なくそうと、捨てようと、盗まれようと……自動的に彼の下に帰るようになっていることも、自分の異常なほどの執着心に怯えられると困るので黙っていよう。 そう思いながら、正守は笑みを作って口を開いた。 「そんなことより」 「へ?」 「玉を渡したことで婚姻が成立したわけで」 「はい~~?」 「とりあえず、初夜といこうか」 「しょ、初夜ぁ~~?」 そんなのとっくの昔に済ませてるじゃないか。と言い返す間もなく、押し倒される。 その瞬間に掌から転がり落ちた石のとろりとした緑色が目に飛び込んできて、何かとんでもないことになったぞと思いつつ、それを返す気にもなれない自分に溜息をついて、良守は覆い被さってきた兄の背にそっと手を回した。 |
「とうかとくけい」 女が情を寄せる男に瓜の木の実を投げて求愛し、 男は受け入れのしるしに美玉を贈るという古代中国の習慣 のちに、男女が愛情の誓いの品を贈ることをいうようになった この場合の「瓜」は、ぼけの木の実のこと 07'10.13.初稿 |