隴を得て 蜀を望む
「…………酷ぇよ、バカ兄貴」

 罵倒されたことは数あれど、こんなに悲しそうな顔と声でなじられたのは初めてで、さしもの正守も罪悪感に駆られた。
 大人気ないことをしたと、今になってみれば思う。
 だが、あの時にはどうしても衝動が止められなかった。腹が減って苛ついていたことも原因の一つだろうが、本当は…………。
 口にするわけにはいかないその理由を飲み込んで、正守は潔く頭を下げた。

「悪かった」

 珍しくもストレートに謝罪した兄に、良守が息を呑む。
 よっぽど驚いたらしい。一瞬、向けられていた負の感情が薄れる。
 それを敏感に感じ取った正守は、そのチャンスにすぐさま食らいついた。

「本当に悪い。だが、言い訳くらいはさせてくれ。実は、最後にまともな食事をしたのが三日前の昼なんだ」
「…………え?」
「報告から予想したのより数倍強い敵で、先行していた部隊を救出するのに手間取った」
「っ! 大丈夫だったのかよ!」

 とたんに良守が目を見開き、探るように正守の顔や姿に視線を向けてくる。
 三日間の強行軍程度で倒れるほどヤワではないが、常よりは窶れていることは確かだろう。くたびれた服の具合からも、並みの状況でなかったことは解るはずだ。
 案の定、予想通りの結論に達したらしい良守はひどく心配そうな顔になった。

「他の人たちは平気だったのか?」
「全員救出したとも。さすがに怪我人ゼロとは言えないが」
「…………そっか」

 良守の心配が、自分だけでなく部下にまで及んだことに内心苛つきながらも正守は真面目な顔で言葉を続ける。

「現場が近かったこともあって、裏会に戻れば何だかんだと仕事があるから家で休んだほうがいいだろうと副長に言われてな。どこにも寄らずに、まっすぐに帰ってきたんだ。そこに…………」
「俺が焼いたスーパーウルトラ美味そうなスポンジがあったってわけだな」
「…………ああ」

 相変わらずネーミングセンスに欠けた弟の言葉に笑い出さないように奥歯を噛みしめながら、正守が頷く。
 そんな兄の反応に、ガクリと良守は肩を落とした。

「そういう状況なら仕方ない……かもしれないような気がする……けど…………するんだけど……ああっ! 今までで一番の、もう一度あのレベルのものを作れるまで何年もかかるかもしれないくらいとびきりの出来だったのにっ!」

 そう。帰宅した正守は、台所に置いてあったデコレーション前のスポンジケーキを食べてしまったのだ。
 スポンジが冷めるまではと道場に行っていた良守が、外出中の祖父か戻ってきた時のためにと張っておいた結界が破られたことに気付いて駆けつけた時には既に遅く、最高傑作だったはずのスポンジはそのほとんどが正守の腹に収まっていたというわけである。

「確かに。おまえ、腕上げたね」
「え?」

 褒められたことに驚いたのか目を見開いた弟に、正守が続けた。

「キメの細かさといい、柔らかさといい、商売になる域にまで達してるよ」
「そ、そうか?」
「ああ」

 にっこり笑いながら頷いてやると、一瞬その頬を緩め……だが、その出来の良いスポンジがデコレーションされることもなく食べられてしまったことに思い至ったのか、がっくりと肩を落とす。

「ああ。あのスポンジなら、俺のグレートキャッスルデラックス38号が作れただろうに!」
「グレートキャッスルデラックス38号…………」

 チラリと見遣った設計図に描かれた城は、その名前ほどには悪趣味ではない。
 手先も器用で美的センスも悪くないのに、どうしてネーミングセンスだけこうなんだろうと思いながら、正守は謝罪の言葉を続けた。

「本当にすまなかった。今度、美味いケーキを買ってくるからそれで許してくれ」
「……美味いケーキ?」
「厳選する」

 断言すると、兄の舌の確かさを理解している良守が「仕方ない」という顔で頷く。

「解った。それでチャラにしてやるよ。三日もろくなモン食ってなかったんだしな」

 確かに腹は減っていた。疲れていたせいもあり、甘い匂いに惹かれもした。
 が、腹を満たしたいだけならば、家に戻る前に何かを食べてくればいいだけのこと。それを押して帰ってきたのは、良守の顔を見たかったからだ。
 一瞬の差で、死ぬまでには至らずとも大怪我を負っていただろう戦いだった。下手をすれば、何人かの配下が帰らぬ者となっていたかもしれない。
 彼等が怪我だけで済んだのは、僥倖だったのだ。
 これが、自分たちの情報収集能力が劣っているからこその失敗だったのならば、まだいい。何事にも完璧ということはないが、それを目指すことはできる。失敗は、そのための糧になるだろう。
 だが、今回のこれは故意に情報を隠蔽された気配が濃厚だった。
 それと気付いたからこそ、刃鳥は自分に実家に戻れと言ったのだ。ワンクッション置くことで、冷静になれるようにと。
 そんなことをしなくても、何も考えずに突っ込んでいくようなことはしない自信はあった。が、それでも彼女の薦めに頷いたのは、戦場で再び部下を失うかもしれないという思いに歯ぎしりしていた時に思い浮かべた顔が良守のものだったからだ。
 愛しくて、憎くて、哀れで、恋しくて……会えば心乱れると解っているのに、それでも会いたい。
 そんな思いに駆られて勢い込んで帰ってきたというのに、甘い匂いを辿った先に目指す人物がいると信じて台所に着いてみれば、そこにあったのはケーキのスポンジだけ。
 すぐに道場に気配があることは解ったが……何というか妙な失望感と、良守にひたすらに情熱を注がれるケーキに対する妬心で頭がぐしゃぐしゃになって、つい手を伸ばしてしまったというわけである。
 隣家の時音にならばともかく、ケーキごときに嫉妬するなんて馬鹿馬鹿しいと自分でも思うが、こればかりは仕方ないというものだ。
 思わぬ成り行きで自分の腕の中に転がり込んできた弟は、実際の話、知ったばかりの快楽に流されているという側面が強い。
 感情の話を突き詰めていくと、自分にとっては都合の悪いことになりそうで、その辺りのことはわざとうやむやにしてきたのだ。
 そんな状態で、自分以外に感情を向けるな。などと言われたら……まず逃げるだろう。
 逃がさぬためには、抱いてる妬心に気付かれるわけにはいかないのだ。
 だが…………。

「隴を得て蜀を望む、か」

 呟いた言葉に、良守が首を傾げた。

「何だ、それ?」
「ああ。三国志に出てくる曹操の言葉で……」
「…………三国志って長い棒持った猿が出てくるヤツだっけ?」
「それは、西遊記。お経を取りに天竺に行く三蔵法師のお供をする話だ。三国志は、中国の……たとえるならば戦国時代に活躍した英雄たちの話だ。曹操はその中の一人」
「へぇ」

 気のないそぶりで頷いた弟に、苦笑しながら正守が続ける。

「その彼が、部下が隴という地域を攻め落としたと報告したら、次は蜀という場所を取ってこいと言ったという話さ」
「なんだ、それ。欲の皮突っ張りすぎ」

 潔癖な少年らしい意見に、正守は軽く肩を竦める。

「でも、まあ人間なんてそんなものだろう? 一つ望みが叶えば、さらにその上を望む。欲望ってものには、限りがない」
「…………そうかな?」

 納得しがたいという顔をした弟に、「そうだと思うぞ」と答えたとたんだった。

「で、兄貴は何が欲しいんだ?」

 不意打ちのような質問に目を瞬かせた正守に、良守が顔を蹙める。

「何か欲しいから、そんなこと言ったんだろ? えっと……ロウをえて食を望む、だったか? なんか、本物だと思って食おうとしたら食品サンプルだった、みたいな言葉だな」
「…………隴を得て蜀を望む、だ」

 斬新すぎる弟の発言に、我慢できなくなって正守は笑い出した。
 妙に思い詰めていたことが馬鹿馬鹿しくなる。
 自分は何を焦っていたのか。妬心に振り回されるとは、やはり冷静ではなかったのだろう。
 だいたい、触れるまでに九年掛かったのだ。完全籠絡まであと数年掛かることは覚悟しておくべきだろう。
 幸い、自分は気が長い。相手を自分の思うような状況に導き込む策も得意だ。
 妬心がわき出てくるのを止めることはできないだろうが、隠し通すことはできるだろう。本心を押し隠すことにも慣れている。

「で、何が欲しいんだよ?」

 笑い続ける兄にムッとしつつも尋ねてきた良守の顔を覗き込み、正守は不意打ちのようにその唇に唇を押しつけた。

「…………っ!」
「人間の欲望にはきりがないという意味だって教えただろ? 腹がいっぱいになったら、別の欲望が出てきたというわけだ」
「な、な、な、な…………っ」
「幸い、目の前に据え膳があるようだし」
「誰が据え膳かぁっっ!」

 叫ぶ声は、一瞬で張り巡らせた防音結界に閉ざされてカケラも外に洩れ出ない。
 絶体絶命の状況に顔を青ざめさせている弟に、正守はニコリと笑いながら「では、いただくとしようか」と囁いたのだった。
「ろうをえて しょくをのぞむ」
司馬仲達が隴を平定した時に、曹操が言った言葉
一つの望みがかなうと、さらにその上を望むこと
欲望には限りがないこと
07'08.04.初稿