毬栗も内から割れる
 精も根も尽き果てるとはこのことか…………。
 体にはまったく力が入らず、湯がぬるめだということもあって溶けて流れてしまいそうだ。背後から抱きかかえる腕がなければ、絶対にずるずると沈んでいっただろう。
 まあ、もしそうなったとしても、ワンルームマンションに備え付けられた狭いユニットバスでは、溺れることもないだろうが。
 というか、この狭いバスタブに男二人で入るってどうなんだ?
 ぼんやりそう思うが、それを指摘する気力もない。
 そんな良守の肩に、ぱしゃりばしゃりと湯が掛けられる。別に外気に当たっているからといって寒いわけではないのだが、そうしてくれる気持ちが嬉しい…………なんてこと、口が裂けても言いはしないが。
 口にするとしたら、「自分がこんな状況になったのはおまえのせいなんだから、世話を焼くのは当然だろう」だろうか。でも、そんなことを言ったら、この変態エロ兄貴は喜ぶような気がする。どうせなら、「嬉しい」と正直に言った方が与えるダメージはでかいような。
 いや、しかし…………。
 どこか虚ろに遠い意識の片隅でそんなことを考えていたら、不意に耳の後ろに気配を感じた。
 完全に弛緩していたはずの体が、僅かに強ばる。

「…………もう無理だ」

 出た声は、みっともなく掠れていた。
 それに、笑いを含んだ声で正守が答える。

「そうじゃない。ちょっと思い出しただけだ」
「……何を?」
「利守が生まれてから俺が家を出るまで、一緒に風呂に入ってたろ? 覚えてるか?」
「そこまでボケてねぇよ」

 母はああいう人なので、たとえ彼女が家にいたとしても育児を含む家事全般は父の仕事だ。
 それまでは父と風呂に入っていた良守だが、父が乳幼児の世話にあけくれるようになると、当然ながらその仕事は正守へと受け継がれた。
 その頃にはもう、兄とはギクシャクしていたから、一緒に風呂に入るのなんて嫌だったのだが、純和風建築の墨村家の風呂は五歳の子供が一人で入れるような造りではなかったのだ。
 そんな気まずい状況、忘れるはずはない。だいたい、たった六年前までのことだ。

「学校でアメリカの児童文学の話になって」
「は?」

 突然変わった話題に思わず目を見開いた良守に構わず、正守が続ける。

「本の中に出てくる保護者たちは、なんで子供に『耳の後ろを洗ったか?』としつこく聞くのか。という話になったんだ」

 あまりにも自分と違う兄の学生生活に呆然とする。
 自分が学校でする話といえば…………。
 思い出そうとして何も浮かんでこないことに何やらちょっともの悲しい思いに駆られながら、良守はとりあえず兄の話に乗ろうと質問を口にした。

「で、なんで?」
「けっこう匂うんだよ、ここは」

 言いながら、正守は良守の耳の後ろに鼻を押しつける。
 匂うと言われてからのその行動に、良守が思わず身を縮めた。
 実際の話、そんなところをちゃんと洗っているかどうかなんて記憶にない。髪を毎日洗っているから大丈夫だとは思うのだが、変な匂いがしたらどうしよう。
 そんなふうに意識したせいだろうか、心臓が嫌な感じに高鳴ってくる。
 抱きしめてる腕にそれが伝わってないはずもないだろうに、正守はその位置から顔を動かすことなく続けた。

「なのに、子供は洗い忘れしがちな場所なんだってことだろう。欧米人は体臭強いというし」
「…………」

 いったん意識しはじめるとダメだった。
 耳の後ろで喋られて、その響きと掛かる吐息に体の芯に熱が生じ始める。
 良守が必死にそれを押し殺していることに気付いていないのか、あるいはそんなふりをしているのか。
 正守はそれまでと同じ口調で続ける。

「そんな話をしていたからな、好奇心に駆られた俺は、その日の風呂でおまえの耳の後ろを嗅いでみたんだ。こうやって」
「…………」

 しゃべるなと言いたい。
 が、言ってしまえば、聡い兄のことだ。自分の状態に気付いてしまうだろう。
 だから、良守は何も言わずにただ体を強ばらせる。
 そんな弟を大事そうに抱きしめながら、正守がしれっとした口調で続けた。

「その時さ、実は勃っちゃって」
「は?」

 思いもよらぬ台詞に、良守がうわずった声をあげる。

「た、たった?」

 希望としては違う漢字を当てはめたいが、流れを考えると……というか、兄の変態ぶりを知っている自分としては、間違えようもないというか。
 でも、信じたくないだろ! そんなこと!
 その思いが滲み出た声音に、正守は喉を震わせて笑いながら弟の手を取った。

「うん。こんなふうに」
「…………っ!」

 掌が火傷するんじゃないかと思うような熱だった。
 慌てて引き離そうとするが、この状況で兄に敵うはずもない。反対にぐいぐいと押しつけられ、思わず泣きそうになる。

「も……もう、ムリに決まって……るだろ…………っ!」
「う〜ん。そっか。まあ、無理強いする気はないんだよ、俺は。内から毬栗が割れた栗の方が美味いに決まってるんだし」

 言葉と同時に、一動作で体の向きを変えさせられる。
 顔を見合わせるようなその体勢は、この状況じゃなくても良守にとってはありがたいものではない。
 たぶんそんなことは百も承知だろうに、まったく気にしたそぶりも見せずに覗き込んできた顔は、他人が見れば「爽やかな笑顔」と言うだろうものだったが、良守の目には何かを企んでいるように、それも、その企みごとを絶対に成功させようと決意している表情としか見えなかった。
 顔を引きつらせ、固まってしまった弟に正守は続ける。

「無理に割れば、棘で傷ついた上に美味くない栗を食わなきゃならなくなるしね」
「な、何だよ……それ……毬栗とか…………」
「あれ? 知らない?」

 わざとらしい笑顔でそう言った後で正守は良守を抱き寄せ、耳の後ろに顔を埋めて、今度はぺろりと舌を這わせた。

「…………っ!」
「『毬栗も内から割れる』ってことわざ。年頃になれば色気づくから、それまで待てってこと」
「な、何だよ、それっ!」
「いや、まさか五歳児に手を出すわけにはいかないでしょ?」
「ヘンタイ!」

 間髪入れずに返された答えに、苦笑しながら正守が続ける。

「まあ、そう言われても仕方ないか。……あ、そうそう」

 それまでただ体を支えるためだけに添えられていた腕が動き、器用な指が良守に生じ始めた熱を大火へと掻き立てようと蠢きはじめる。

「このことわざにはもう一つ意味があってさ、それって『いがに刺されないためには、自然に割れるのを待つのが賢明』ってのなんだけど」

 耳朶を舌でなぞりながらの説明など、ほとんど意味が解らない。
 濡れた感触と低い声の響きに、疲れ果てているはずの体が勝手に震えはじめる。
 そんな良守の様子に満足そうに正守が続けた。

「自然に割れるまで九年も待ったんだ。もう待たずに、栗が自分から毬を割って出てきたくなるようにし向けるくらいは許されると思うんだけど、おまえはどう思う?」

 当然ながら、その問いに答えることなど良守にできるはずはなかった。
「いがぐりもうちからわれる」
鋭いいがに覆われている栗も、熟せば自然にはじけて実が出てくる
そのように、人間も年頃になれば自然と色気づくのだから、時を待て。ということ
他に、いがに刺されないためには自然に割れるのを待つのが賢明という意味も
07'08.02.初稿