牡丹餅で頬を叩かれる
 夜行では、頭領の三時のおやつは和菓子と決まっている。
 洋菓子が大量にあったとしても、絶対にそれを出してはいけない。買い出しに行ってでも、和菓子を用意するべし。
 でも、和菓子だったら何でもいいというわけではない。決して出してはいけない菓子が、一つだけだがある。
 それは…………。

「帰るわ」

 頭領に呼ばれて部屋へと行ったばかりのはずなのに、憮然とした顔で戻ってきた夜未に刃鳥は眉を顰めた。

「何かございましたか?」
「ございましたわよ! 人を呼び出して、お茶まで淹れさせておいて! そのお茶に手もつけずにどっかに出かけるなんて、いったいどういうつもりなのかしら!」
「……出かけた?」

 刃鳥の眉がより以上に顰められる。
 漂い始めた冷気に、怒り狂っていたはずの夜未が半身引いて後ずさった。

「どこへ?」
「し、知らないわよ!」
「何かきっかけでも?」
「そう言われても……また何の話もしてなかったし。部屋に着いたとたんにお茶を淹れろと言われて、仕方なしに淹れている間にいなくなったんだから!」

 本当に心当たりはないらしいと判断した刃鳥は黙って立ち上がり、正守が仕事用に使っている部屋へと向かう。
 そして、机の上に載せられたものを見て目を見開いた。

「…………このお茶菓子はあなたが?」
「え、ええ。お彼岸が近いから贔屓の和菓子屋さんで出し始めて。こういう素朴なものも悪くないかなと思ったんだけど……」

 言いながら、夜未の顔が蹙められる。

「もしかして、おはぎが原因なの?」
「はい」
「あの男、妙だ妙だとは思ってたけど、おはぎを見て放浪始めるような癖があるの?」
「行き先は解っています」

 大きな溜息をついて、刃鳥は呟いた。

「申し訳ありませんが、明日出直していただけますか。昼頃には戻ってくると思いますので」
「……それはいいけど」

 無表情で淡々と話している刃鳥から漂う剣呑な空気に顔を引きつらせながら、夜未が頷く。

「それと、頭領には絶対に洋菓子と牡丹餅は見せないでください」
「洋菓子でも放浪を始めるの?」
「はい」
「え? でも、以前クリームソーダやパフェ食べてるの見たことあるけど……」
「御実家の近くででしょう?」
「…………放浪先って実家なの?」

 夜未の問いに、刃鳥が頷いた。
 それに、呆れたように夜未が呟く。

「なによ、それ。甘いもの見ると里心が付くってワケ? 子供じゃ…………」

 ないんだから。と続けるつもりだったろう言葉が、何かに気付いたように途切れる。

「えっと……見せちゃダメなのは、洋菓子と牡丹餅だけなの?」
「ええ」
「もしかして……牡丹餅は例外だったりする?」
「はい。それ以外の和菓子は総て平気なので。洋菓子、特にバニラの匂いがするものやチョコ菓子などは絶対にダメですね」
「…………それってもしかしたら」

 引きつった顔で何かを言おうとした夜未が、刃鳥の表情に口を噤んだ。

「あ、明日の昼頃なら平気なのね? また出直してくるわ」
「はい」

 スッと頭を下げてみせた刃鳥に、「ほほほほほ……」と実のない笑い声を残して夜未が去っていく。
 それを確認してから、刃鳥は蜈蚣を探すために歩き出した。
 完璧な人間がいないことなど解っている。ある意味、彼の弱みが彼を絶対に裏切ることがない人物であったことは僥倖なのかもしれない。
 しれないが…………。
 刃鳥は溜息をついて、牡丹餅までが頭領のおやつの禁止事項に入った時のことを思い起こしていた。



 あれは、五ヶ月ほど前。桜が散った頃だった。
 彼岸は過ぎていたが、まだ店では出していたらしい。使いに出した者が、頭領のおやつとして牡丹餅を買ってきたのだ。
 気を利かせてだったことは解る。
 桜餅もうぐいす餅も出したばかりで、春らしいものと思ったら他にはなかったのだろう。それより少し前、彼岸の時期に出された時には何の問題もなかったのだから、それを選ぶのも無理はない。
 だが…………。

「どうして、牡丹餅は幸運の象徴として使われるんだろうねぇ」

 おやつに出した牡丹餅を見てそう言った男の顔は、よく言って『笑み崩れている』、悪く言えば『やにさがっている』だった。
 いったい何があったのか、訝しく思いつつも無難な答えを返す。

「昔は小豆も餅米も……特に砂糖が高級品だったからと思われますが」
「確かにそうだねぇ」

 どうやら、こっちの返事など本当はどうでもいいらしい。
 夜行の頭領は、部下が見たら幻滅すること確実な笑顔で牡丹餅に象徴される幸運を思い返して幸せにひたっている様子だ。
 さすがの刃鳥も直視するのは憚られたので、少し視線を外しながら補足する。

「それでいて、庶民の手に届かないほどの高級品ではなかったというところが諺に使われる所以ではないかと」
「そうだよねぇ……でも、俺は手が届かないものだと思ってたんだよ」
「…………」

 何がと聞くのは非常に危険な気がしたので黙っていたのだが、正守の独白は勝手に続いている。

「目の前にあるのに食べちゃいけないって拷問だよねぇ。我ながら、よく我慢したと思うよ」

 彼が牡丹餅に置き換えている幸運とはいったい何なのだろう?
 だいたい、「自分には手が届かないものだから諦める」などというのは、彼らしくない。端から見て無理そうなことでも、何とかするのが墨村正守という男だと思うのだが。

「で、その牡丹餅が棚から落ちてきたんですか?」

 与太話にこれ以上付き合うのも面倒になったので、そう尋ねる。と、彼は何ともいえない顔で頬を撫でた。

「棚から落ちてきたというよりは……頬を叩かれた。かなぁ」
「…………同じような意味と存じておりますが?」
「ん? そうなんだけどね」

 言いながら頬を撫でててるところを見ると、実際その『牡丹餅』さんに叩かれたのだろう。
 彼に手の届かないと思わせた、すぐ近くにいた人物……雪村時音という少女だろうか? 確か、墨村家と雪村家は犬猿の仲と聞いた。

「思い出したら会いたくなっちゃたなぁ」
「…………頭領?」
「ちょっと実家に帰ってくる」
「は?」
「明日の昼には戻るから。スケジュールの調整、よろしく」

 とりあえず、彼にしてもらわなければならないほどの急ぎの仕事はなかったはずだから、一日程度なら何とでもなる。
 なるが…………確か、あの少女はまだ高校生ではなかっただろうか? 今から実家に行って明日の昼頃に帰ってくるということは、夜の間中一緒にいるつもりなのか? って、まさか未成年者を相手に不純異性交遊を?
 い、いや。夜の間、彼女は烏森であやかし退治をしているはずだから、協力するついでに少し話をするだけに違いない。
 というか、そうでないと困る。
 ただでさえ、夜行は上から睨まれているのだ。付け込まれるような隙など作っている余裕がないことは、頭領も知っているはず。
 ああ、だけど、あの頭領がプラトニックなおつきあい程度のことで『牡丹餅で頬を叩かれた』などと言うだろうか? それに、あの口ぶりでは食べてはいけないと思っていた牡丹餅は既に食べてしまったのだというように聞こえたのだが…………。
 いや! いくら頭領でも、本気の相手なら時期を待つ程度のことは!

 ぐるぐると思考を巡らせた刃鳥は、結局、烏森を見張っている者たちに頭領が行くかもしれないことを伝え、その動向に注意しているように指示したのだが。
 結果、頭領は雪村時音とは挨拶程度の接触しかしなかったらしい。弟の良守が割って入ったという話だった。
 頭領が未成年者相手にふらちな真似をするのを押しとどめてくれたのはありがたいが、そうなると、帰ってきた時さぞや不機嫌だろう。どうやって宥めようか。
 そう思い悩んでいたのだが…………。

「ただいま」

 帰ってきた頭領は、近年まれに見るほど上機嫌だった。

「お帰りなさい」

 不思議に思いつつ頭を下げ、甘い匂いに気付く。
 彼がお茶菓子に絶対に選ばないだろう焼き菓子の匂いだ。

「ああ、これ。良守が子供たちにって」
「良守くんが……」

 思わず頬が緩む。
 無謀で無鉄砲で、でも優しくて強い。
 自分たちの頭領である正守をさしおいてその実家を継ぐ人間だということで、どこか冷たい目で見ていた夜行の者たちも、さほど時を掛けることなく彼を好きになった。
 洋菓子作りが趣味だという彼は、黒芒楼の一件に決着が付くまではそれを封印していたという話だが、今はこうやってお菓子を作って…………え? 洋菓子?

「頭領」

 あまり考えたくない可能性だが、思いついてしまったなら確かめずにはいられない。そうしておかないと、延々と気になってしまう。

「……牡丹餅は美味しかったですか?」

 潜めた声での刃鳥の問いに、正守は一瞬だけ目を見張った後で薄く笑い、「このうえもなく」と答えた。
 以来、夜行では頭領に牡丹餅を見せるのは禁止となったのである。
「ぼたもちでほほをたたかれる」
思いがけない幸運が舞い込んでくるたとえ。
ちなみに、牡丹餅とおはぎは同じ食べ物。
春の彼岸の時には牡丹餅、秋の彼岸時にはおはぎと呼ぶ
07'08.26.初稿