蛇の生殺しは人を噛む
 油断した、と言うべきなのだろう。
 だが、良守がこんなことをするとは夢にも思わなかったのだ。だから、彼がこの部屋に入ってくる気配を感じていても、警戒しなかった。それどころか、人の気配に浮かび上がりそうになった意識を、より深くへと沈めてしまったのだ。
 まさか、こんなことになるとは思いもせずに。

「……何をするつもりだ?」

 ベッドの上、四肢を結界で抑制されている。
 見ようによっては淫靡な情景だろうが、それをされているのが自分となれば話は別だ。

「兄貴は何もしなくていいから」

 そう言った弟の目は据わっている。
 その様子に、正守は心の中で「まずったな」と呟いた。
 逢瀬のために借りているこの部屋に呼び寄せたにもかかわらず、急な仕事で来れなかったこと数度。ようやく会えた前々回は、盛り上がるだけ盛り上がったところで携帯が鳴った。
 そして、前回。
 たぶん、久しぶりに弟に会えるという思いに気もそぞろになっていたのだろう。
 子供たちの喧嘩の仲裁に、珍しくも失敗した。泣き出した少女を宥めるのに手間取り、気付けば夜。そんな時間から向かっても、弟の仕事時間にぶつかる。次の日に何も予定が入ってなければそれでも良かったのだが、あいにくと急な仕事が入っていたため、結局はキャンセルの電話をするはめに陥ったのだ。

 別に焦らすつもりはなかったのだが、結果としてそうなってしまったということだろう。若い良守がキレても仕方ないのかもしれない。

「今日は呼び出しはないぞ。今朝まで仕事してたから、休みを貰ってある」
「ふ〜ん。そう」

 まるで信じてないという口調で良守はそう呟き、ベッド脇に置かれた棚へと歩み寄る。
 そこに常備してある潤滑剤を取り出した時の表情は、まるで興味のない科目の教科書を鞄から取り出しているかのようで、性的なことを匂わされるといつもなら浮かべる羞じらいの気配すらない。
 どうやら、かなり機嫌を損ねてしまったようだった。

「良守、結界を解け」
「なんで?」
「なんでって……おまえに触れないだろ?」
「触らなくていいから」

 きっぱりと言い切られ、思わず絶句する。

「…………良守。この前のことは悪かったが、人の命が掛かってたんだ」
「解ってる。オレ、行くななんて言わなかったろ?」

 確かに、そうだ。
 急に行けなくなったと連絡した時も、「解った」の一言だけで我が儘を言われたことはない。
 前々回だって、あんな状態で放り出すなんてかなり酷いことをしたと思うのだが、それに対する恨み言はなかった。
 それを、フィールドは違うとはいえ同じような仕事をしている同士。理解してくれているからだと思っていたのだが、違うのだろうか?
 それとも、頭では理解していても感情がついていなかったというところか?
 もしそうだとしたら、それはそれで嬉しい…………と思っていたところに、淡々とした口調で続けられる。

「携帯鳴ったら、今日も行っていいよ。その時は結界解くから」
「…………」

 もしそうだとしても、感情のこじれはかなり根深いものらしい。
 確かに、こうやって直接話をすることさえ約一ヶ月ぶり。前々回をカウントしなければ、三ヶ月ぶりくらいになる。
 良守が拗ねても仕方ないといえば確かにそうだろう。
 聞き分けが良い彼に少し甘えすぎていただろうかと心の中で反省し始めた正守の目の前で、良守は学生服の上を放り投げた。続いて、無造作に下着ごとズボンを脱ぎ捨てる。
 靴下とワイシャツだけという、そそられることこの上もない姿に思わず正守は息を呑んだ。が、良守はそんな兄の反応など気付いてもいないような顔をしている。

 何とももどかしい思いで、正守は弟を見つめた。
 自分を拘束している結界は、解こうと思ったら解ける。が、ここでそんなことをしたら良守がもっと拗ねるだろうことは確実。できれば、彼自身の手で解いてほしい。
 そんな思いを込めて見つめているのだが、良守は正守の顔を見ようとしなかった。
 たぶん、その視線に気付いていて、だが、ほだされるつもりはないという意思表示なのだろう。
さて、これはどうするべきか。
 困惑しつつ見ていると、良守は潤滑剤で濡らした指を何の躊躇もなく背後へと回した。

「よ、良守!」

 みっともないほどに裏返った声。
 それを聞いてようやく視線を兄へと向けた良守が、その口元を笑みの形に歪める。

「安心して……いいから」
「良守?」
「兄貴がいなくても……一人でできる…………っ!」

 言ったとたんに良守はビクリと震えた体を仰け反らせた。
 そして、そのまま床へと崩れ落ちていく。
 風に煽られて一瞬だけ上がったシャツの下、良守の指がまぎれもなく後孔に差し入れられているのが見えた。その欲望が勃ち上がっていることも。

「良守!」

 荒い息の合間に聞こえてくる濡れた音。
 拘束されている状況で耐えられるギリギリまで首を上げて見遣ると、シャツの下、胸の辺りで手が蠢いているのが解った。

「だから…………んっ!」

 いったい、だから何なのか。
 憤りさえ含み始めた正守の視線の先で、良守は一人で体を燃え上がらせていく。

「あ……ん…………ぅ……」

 噛み殺そうとしてできなかった、という風情の声が耳に響いた。
 自分の腕の中、自分の行為の結果としてもたらされた反応ならば、きっとこの上もなく甘かっただろうそれは、妙にざらついて聞こえる。

「…………良守、結界を解け」

 軋むような声だった。
 だが、良守には聞こえなかったらしい。

「あぁっっ!」

 悦楽に濡れた声と共に大きく体を震わせた。と同時に、辺りに独特の匂いが立ちこめる。
 その瞬間、口の中に鉄錆びた味が広がった。

「解」

 弟が自ら結界を解いてくれるまで待とうと思っていたことなどすっかり忘れ果て、低い声でそう唱える。
 次の一動作でベッドの脇でうずくまっていた良守を引き上げ、体の下に敷き込んだ正守は、その顔を覗き込むなり、言おうとしていた言葉を飲み込んだ。
 達したばかりとは思えないほど色のないその顔は、悲痛以外の言葉では言い表せないような表情を浮かべていたのだ。

「良守……?」
「も……平気だ……からっ!」
「良守、おまえ何言って…………」
「オレのことなんて……いいから、好きな娘のトコ行けよ!」
「…………は?」

 予想外も予想外。
 いったいなんでそんなふうに考えるようになったのか、まったく理解できない台詞に正守が目を瞬かせる。
 そんな兄の様子に気付く余裕もないらしい良守は、辛そうに顔を歪めながら続ける。

「好きな娘できたのに、オレなんかに構ってちゃダメだろ」
「良守、その俺の好きな娘って誰だ?」
「とぼけるなよ! この前、その娘が泣いて縋ったから俺との約束破ったんだろ?」

 いったいどこからそんな話が流れた…………と考えるまでもない。
 夜行の誰かがおもしろおかしく話を作って閃に話し、真に受けた彼が良守にその話をしたのだろう。正守が弟とこんな関係を結んでいることも、その日に約束をしていた相手が良守だということも知らないのだから、咎めるわけにもいかない。

「あのな。確かに泣いて縋られたが、相手はまだ子供で…………」
「やっぱり若い方がいいんだ」
「…………」

 自分をいったいどんな異常嗜好の持ち主だと思っているのか。
 確かに、実の弟、それも中学生にこんなことをしている時点で誹られることは覚悟の上だが、ロリコン呼ばわりされる覚えはない。

 これは、言葉で言うより行動で示した方が早いかと、さっきの良守の痴態とそれをただ見せられているという憤りで猛ったものを押しつける。
 と、良守は目元を赤く染めつつも咎めるような眼差しを向けてきた。
 何とも色っぽいその表情に欲望はますます勢いを増したが、ここは快楽でごまかすよりちゃんと説明した方がいいだろうと判断してそっと腰を引く。

 さすがに今日は呼び出しはないだろうが、万が一ということもある。
 良守のことだ。誤解させたままだと、どんな突飛な解決法を選ぶともかぎらない。自分の目の前での一人エッチくらいなら大歓迎だが、「新しい恋人を作った」などと言われたら、相手を滅してしまいそうだ。
 そんなことを考えながら、正守はまっすぐに良守の目を見ながら続けた。

「俺は夜行の頭領だ。預かった子供には責任がある……たとえ、異能をうとまれて押しつけられるような形で来た子でもな」

 真剣かつ重々しい口調とその内容に、良守が目を見開く。
 どうやらこちらの話をちゃんと聞いてくれる態勢になったらしいと判断し、正守は少し口調を和らげた。

「この前は、久しぶりにおまえに会えると気もそぞろで、そのせいでぐずられたんだ。うとまれていると思いながら育った子供は、相手の心情に敏感だからな。そんな子供を振り払って来ることはできなかった」

 宥めるようにそう言うと、ようやく信じたのか良守が小さく頷く。
 それに、にっこりと微笑んでやりながら正守が続けた。

「納得してもらえたようで嬉しいよ。ところで…………」

 一度引いた腰をグイと押しつけると、良守の顔が真っ赤に染まった。

「俺を縛った上で後ろを馴らし始めたから、上に乗ってくれるのかと期待したんだが」
「う、う、上に乗るっっっ?」

 声が完全にひっくり返っている。
 そんな弟に殊更に優しい声で正守は告げる。

「まあ、それはまた後で」
「あ、後ぉ〜〜?!」
「うん。ここまで生殺し状態味あわされたんだから、とりあえず最初はこのままで。次は乗っかってもらおうかな? それとも、さっきやってたみたいに立ったままってのもいいかな?」
「〜〜〜〜〜〜っっっ!」
「心配しなくても、烏森には俺が行ってやるから。それまでと、その後もな。朝までたっぷりしてやろう」
「じょ……冗談…………」

 引きつった顔と震える声でそう言った良守に、正守が微笑みかける。

「もちろん……」
「冗談なんだよな?」
「本気だ」

 とっさに逃げようとした体を引き寄せて、良守が自分で馴らした場所へと滾りきった欲望を押しつける。

「蛇の生殺しは人を噛む、と覚えておいたほうがいい」
「…………っ!」

 一気に貫かれた衝撃に身を仰け反らせた良守を抱きしめ、正守はそこがもたらしてくる快感に熱い吐息をつく。

「まあ、俺も人のことは言えないが。少し放っておきすぎたか……」
「や……あに…きっ!」

 そこが食むように自分の欲望に絡みついてくるのを感じながら、正守は「まあ、こういう噛みつかれ方なら大歓迎なんだが」とこっそり呟いたのだった。
「へびのなまごろしはひとをかむ」
物事に決着をつけずに中途半端で放っておくと恨みを買って
後難を招くことになるというたとえ
07'09.06.初稿