花は根に 鳥は古巣に |
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「兄貴、なんで家を出たんだ?」 情事の後のけだるい雰囲気の中、兄の体に身を寄せ、その胸に顔を埋めるようにしていた良守がぽそりと呟いた。 突然の、そして聞かれると思ってもいなかった問いに、正守が思わず目を見開く。 「……なんだ、急に?」 「急にじゃねぇよ」 掠れた声でそう言った後、こほこほと良守は咳き込んだ。 借りた時はそんなこと思ってもいなかったのに、今はすっかり密会用と化してしまったワンルームマンション。そこに、念のためにと二重に防音結界を掛けた中ということで、少し羽目を外しすぎてしまったかもしれない。 夜までには回復するだろうか? もしかしたら、自分も烏森に赴いた方がいいかもしれない。 そんなことを考えながら、ベッドサイドに置いておいたペットボトルを手渡す。 「……コーヒー牛乳がいい」 「後で買ってきてやるから」 宥めるようにそう言うと、素直に頷いた良守はそれを喉に流し込んだ。 少し甘めのスポーツドリンクが気に入ったのか、それとも喉の渇きに耐えかねたのか、ほとんど一気のみの勢いで500ccを飲み干す。 そして、空になったそれを無造作に放り投げ、剛い目で尋ねてきた。 「で、なんでなんだよ?」 これはあれだろうか。良守と自分の距離が縮まったということか? 心が通い合ってなくとも、肌を合わせていれば解ることもある。体が馴染んでくると、それなりに距離は縮まっていくものだ。 どうやら、良守はタブー視していただろうその質問を投げかけても自分たちの関係は崩れない。と、そう認識するようになったらしい。 そのことを内心で喜びながら、正守は口を開いた。 「そりゃあ、俺が正統継承者じゃなかったからでしょう」 「…………っ!」 目を見開いて、絶句。 ストレートにそう言われることを覚悟していなかったのか、それとも覚悟していても衝撃は予想以上だったのか。 わななき始めたその唇を拭うように指で撫でながら、正守は呟いた。 「家督を継げない男は家を出るしかない。そういうもんでしょ? 利守が正統継承者だったとしても、俺は家を出たと思うよ」 「…………で、でも!」 何か言おうとした良守の口を手で封じ、正守が続ける。 「俺だけじゃないよ。利守だって、いずれはあの家を出て行く」 「…………え?」 「あいつが結界師として生きることを選ぶか、一般人として生きることを選ぶかによって時期は違うだろうけど、それは確定的な未来だよ」 予想もしていなかったのか、良守は衝撃を受けたように黙り込み、縋るように正守の胸に顔を埋めた。 その頭を抱え、ゆっくりと撫でながら正守は呟く。 「あの当時、俺も若かったからねぇ。いろいろと思うところもあったわけだよ」 「…………」 「おまえが生まれるまでの七年間、俺は家督を継ぐべき人間として育てられた。初孫だってこともあって、爺さんの期待も凄かったしね。それが一瞬でひっくり返されたんだ。七歳児にはけっこう酷な話だろ?」 良守は答えない。 ただ、その体は微かに震え始めている。 それをしっかりと抱きしめて、正守は続けた。 「下手に力があったのも問題だったんだろうな。家を継げないと解っていても、結界師としての道を捨てられなかった……そのせいで七歳も年下のおまえに八つ当たりしたりして、我ながら情けない」 「そ……んな! 違う! 兄貴は悪くない!」 見上げてくる目には必死の色。 悪いのは自分だと固く信じているその目の縁に、笑いながら正守は口づけを落とした。 「いや、悪いのは俺だ。方印が出たのはおまえのせいじゃない。なのに、八つ当たりしたんだからな」 「…………兄貴」 「思い出しても嫌になるくらい、あの頃はぐちゃぐちゃだった。おまえは修業を嫌がってちっとも術は上達しないし……自分の方が継承者にふさわしいんじゃないかっていう思いと、方印はおまえに出たという事実と。それだけならまだマシだったんだけどね」 くすりと笑って、正守は弟の頬を撫でる。 「俺はね、どうも身内に甘い。懐に入れた人間を何が何でも守ろうとするきらいがある」 「…………それ、悪いことなのか?」 不思議そうに尋ねてくる良守の体は、自分以外の者を守るためについた傷でいっぱいだ。 それを指先でなぞりながら、正守は答える。 「成長を促そうと思ってるなら、ダメでしょう」 「……成長?」 「そう。成長させようと思うなら、適度に放置し、適度に試練を与えなきゃいけない。解っていても、なかなか距離感が掴めなくてねぇ。おまえの時は失敗ばかりだった」 「…………」 「結界師として生きるなら、学歴はいらない。中学を卒業したら家を出て行くことを決めて、だからおまえを突き放したのに、夜になったらいてもたってもいられなくてさぁ。今だから言うけど、実は毎晩烏森に通ってたんだよね」 「はぁ?」 思ってもみなかった告白に、良守が目を見開いた。 「毎晩って……毎晩?」 「ああ。おまえの七歳の誕生日から、家を出る前の晩まで。爺さんには過保護だって怒られたけどさ、家にいても心配で眠れないからって許して貰ってたの」 「…………」 よほど驚いたのか、目を見開いたまま良守は固まってしまっている。 そんな弟に、正守は続けた。 「でも、家を出てからは違う。烏森のこともおまえのことも、ほとんど思い出しもしなかったよ。一年間、見ていて大丈夫だろうと思っていたこともあるけど……正直、自分のことで精一杯だったからね」 「兄貴…………」 「特に、夜行を結成してからは忙しかったからさ。もう俺は家を出た人間だという気にもなってたし」 外に出て解った。あれほどに焦がれた方印は、それを持つ人間を烏森に縛り付ける鎖だ。決して羨ましく思うようなものではない。 どんなに大きな翼を持っていても、弟は鳥籠の中に囚われて逃げることが許されない鳥なのだ。 「夜行の情報ルートから、烏森を狙ってるあやかしの集団がいるって聞いて。夜行の頭領として、異能者であるおまえを冷静に判断しよう。それができると思ってたのにさ。実際、そうしようと思ったら、全然ダメだった」 くすくす笑いながらの台詞に、良守が眉を顰める。 「……けっこう酷いこと言われた気がするんだけど」 「発憤を期待しての愛の鞭だよ。だけど、まさかあんな台詞が返ってくるとはね」 「…………あんな台詞?」 「『烏森を封印する』」 答えると、良守はちょっと困ったように目を瞬かせた。 「あれは感動したね。心臓撃ち抜かれた気分になった」 「な、何だよ!」 耳まで真っ赤になって、良守は顔を隠すように身を縮める。 そんな弟のつむじに、正守が軽く口づけを落とす。 正統後継者たる彼がそれを口にすることがどれほど異質なことか、自分自身では解らないのだろう。烏森が選んだ彼がそれを口にすることが、自分を拒んだ烏森への憎しみを胸の奥に潜めていた正守をどれだけ喜ばせたかも。 自分の後ろを泣きながら追いかけていた弟は、いつの間にか剛い目をした人間に成長していて、総ての者を守りたいとその両の腕を広げるようになっていた。 かつては解らなかった潜在能力の高さも、その気質も。何もかもが自分を捕らえて離さない。 「巣立ったつもりだったんだけどねぇ。結局、俺ってば出戻り?」 「はぁ?」 訳が解らないという顔で見上げてきた弟の唇に、そっと唇を寄せる。 花は散って、その花を咲かせた木の根元に落ちる。飛び立ったはずの鳥は、結局は古巣に戻る。 墨村に生まれたものは、方印が出ようと出まいと結局のところ烏森から離れられないのだ。あの奔放な母でさえ、あの地のために遠くから龍を連れてきたではないか。 もしかしたら、それが墨村と雪村の家に生まれた者に掛けられた呪いなのかもしれない。 自分に掛けられた呪いのその形を抱きしめて、正守はうっそりと微笑んだ。 |
「はなはねに とりはふるすに」 咲いた花は、その木の根元に散って木の栄養分となる 空を飛ぶ鳥も、最後は巣に帰る ものごとは皆、その根源に帰るもの 07'08.09.初稿 |