ちょっと嘗めたが身の詰まり |
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「おかえり。今日のケーキはタルトタタンだぞ」 襖を開けたとたんに掛けられた言葉に、良守は凍り付いたように立ちすくんだ。 「どうした?」 自分のために敷かれた布団の上に堂々と座り、ニヤリとしか表現できない笑顔でそう尋ねてきた兄は、良守が部屋に入って来ないのを見て、その芸術的ともいえるケーキにフォークを入れようとする。 「あっ!」 思わず一歩を踏み込んだとたん襖が勝手に閉まり、部屋を結界が覆った。 振り向くと、式神だったらしい紙がひらりと一枚舞っている。自分を部屋に入ったと同時に襖を閉め、紙に戻るようにという指示を受けていたのだろう。 なんて用意周到なんだ…………。 呆然とそんなことを考えていた良守に、再び声が掛けられた。 「来ないのか? ケーキ食べちゃうよ」 結界は、さほど強固なものではない。解除しようと思えばできる程度のもので、その辺りが兄の意地が悪いところだと思う。 別に来なくてもいいよ。と告げているような笑顔の前には、どうやって作ったのか是非にも間近で見てみたい、味のチェックもしたいと思わせるようなケーキ。 ケーキのためだ。ケーキのためだ。ケーキのためだ。 自分にそう言い聞かせ、足を進める。 ケーキをはさんで兄の正面に正座し、皿の上を覗き込む。 これぞまさしく飴色! という色に煮られたリンゴ、対照的に真っ白な生クリーム、チョコレートで作られた繊細な飾り。底に敷かれたタルト台すらも輝いて見える。 「綺麗だなぁ……。タルトタタンって基本的に素朴なケーキなのに、どうしてこんなふうにしようって思えるんだ?」 目にも美しいケーキを目前にして、状況を忘れ果てた良守は思わず呟いた。 「キャラメリゼはしてないんだな。う〜ん。たしかにここで固い食感が来ると、食べにくいか……シナモンの匂いはしないな」 「食べないのか?」 「パイ生地じゃなくてタルト台を使ってるのは、食感のためか? う〜ん」 ぶつぶつと呟いている良守の目の前で、正守はケーキにざくりとフォークを入れた。 「うわぁっっっっっ! まだ見てるのにっっ!」 「一応、賞味期限は昨日一杯だから早く食べないと」 「つい三時間前じゃねぇか!」 「でも、早く食べたほうがいいだろ?」 そう言って、正守はフォークを自分の口に運んだ。 「あぁ〜〜っっっ!」 「おまえね、大声出すんじゃないよ。夜中だぞ」 「…………防音結界張ったくせに」 最初に叫んだ時に、良守だって「まずい」と思ったのだ。が、その瞬間に結界が強化されたのが解ったので、その後は心おきなく叫んだわけなのだが。 「あ、おまえ気付いてたの?」 「バカにすんな」 ムッとしてそう答えると、兄はにやりと笑ってもう一度フォークをケーキに突き刺した。 「食べたい?」 「……当然だろ」 「じゃあ、あ〜ん」 フォークを差し出しつつそう言った兄のにやけた顔を殴りたい欲求に駆られつつ、良守は口を開けた。 前回、「子どもじゃないんだから、そんなことしたくない」と顔を背けたら、「せめてバカップルといえ」と言われ、よけいに口なんて開けられなくなってそっぽを向いたままでいたら…………そのフォークは、あっさりと兄の口に運ばれてしまったのだ。 今日のケーキは大きめだからまだ一口分残っているが、この前のケーキは本当に小ぶりなものだったのでそれで終わりに。 今思い出しても、悲しくて仕方ない。 が、今は口の中にケーキがあるのだ。その時のことは忘れ、楽しもう! そう思い、良守は口の中に放り込まれたケーキの味に集中することにした。 加熱されたリンゴのねっとりとした甘み。ほのかなカラメルの苦み。タルト台は思っていた以上に軽くほろほろと口の中で崩れる。それらとクレームダマンドと生クリームが混じり合って、絶妙な味わいが…………。 「おーい。戻って来い」 声に我に返ると、兄が目の前で手を振っていた。 「おまえのその集中力、どうして他のところで発揮されないのかねぇ」 「……うっせぇ」 そう言って、兄の手からフォークを奪い、最後の一切れと残されていた飾りのチョコを口の中に放り込む。と、その手を掴まれ引き寄せられた。 「なん……だよ?」 「味見」 「最初の一口、食ったじゃ…………」 言葉は途中で封じられた。 唇が重なると同時に口を軽く開いてしまうのは、もう条件反射みたいなもので。互いの口に残る味を確認するように舌で探り合うのも、最終的にそれらを絡めるのも、もう馴れてしまった行為だ。 正直に言えば、襖を開けて兄がいることに気付いた時から鼓動は変に高鳴っていた。 それを隠すために気の進まぬふうを装っていたのだが…………当然、そんなことは兄には解っていたことだろう。 広い胸。力強い腕。 自分程度の体重なら預けてもビクともしないことが解っている兄に、力が抜けてきた体を委ねると、そのまま一動作で布団に押し倒された。 「次はどんなケーキにしようか?」 「…………兄貴に任せる」 「チョコレート系がいいかな? おまえ、好きだもんね」 からかうような口調にムッとはしたが、抗弁はできない。 なにせ、自分と兄がこんなことをするようになったきっかけは、チョコレートに対しての自分の意地汚さだったのだから。 それは今から数ヶ月前のこと。 良守はとあるエクレアに魅了されていた。 ただのエクレアではない。何やら見た目からして凄いエクレアだったのだ。 たっぷりと間に挟まれたチョコレートクリーム。皮に塗られたチョコレートは、その色艶だけで高級品だと解る色と照り。その上に金箔まで振ってある。 何やら入ってるケースまで豪勢だった。このエクレアのためだけに作られたのだろうなというかっちりとした箱で、それだけで作り手の思い入れが解るというものだ。 烏森で疲れ果てていたことも、自室に兄が待ちかまえていたことに対する不信感すら忘れ果て、良守はそのエクレアに見とれた。見入った。見惚れた。 魅入られたと言ってもいいかもしれない。 喉元まで迫り上がってきていた、「眠いんだよ」とか「人の部屋に堂々と居座ってんな」という台詞が総て時空の彼方に飛んでいってしまうほどのインパクトが、そのエクレアにはあったのだ。 座り込んで、前から横から上から斜めからエクレアを見つめて飽きた気配すら見せない良守に、正守が少し呆れたように声を掛ける。 「実はね、ちょっとおまえに頼みがあって……」 「いいよ」 「良守?」 「なんでも言うこときく。きくから、それ食わせろ!」 そう叫んでいる良守の目は、エクレアに据えられたままチラとも兄に向けられることはない。 そんな弟の様子に溜息をつき、正守が呟いた。 「……おまえねぇ。まさかと思うけど『ケーキ食べさせてあげるから、おじさんと一緒にいいトコに行こうね』なんて言われて、見知らぬ男にほいほい付いて行ってるんじゃないだろうな?」 「はぁ? 何、バカなこと言ってんだよ?」 「だって、おまえ『なんでも言うこときく』なんて言うからさ。俺が、なんかとんでもないこと頼もうとしてたらどうするつもりだったんだ?」 「兄貴が? 俺にとんでもないこと?」 そこでさすがに視線を上げて、良守は自分を見下ろしている兄の目を見つめた。 「たとえば、どんな?」 「……たとえば、だな」 「たとえば?」 答えず、難しい顔で黙りこんでしまった兄に、良守は思わず笑ってしまう。 「なんだよ、やっぱり思いつかないんじゃないか」 「……やっぱり?」 低い声で問い返されたが、良守はそれを無視してエクレアに手を伸ばす。 「だって、兄貴が俺に無茶なこと言うはずないし」 こうやって持ってくる話だって、本当に大変なところは兄がやるに決まっているのだ。それどころか、どうしても人手が必要だという時以外は話自体を持ってこない。 もっと自分を……いや、自分じゃなくてもいい。夜行の人でもいいのだ。誰かを信用して、いろんなことを任せてもいいと思う。自分だって夜行の人たちだって、兄の頼みならきっと喜んで手助けをするだろう。 と、そこまで考えたところで、良守は心の中で頭をぶんぶんと振った。 夜行の人たちはともかく、自分の場合は「喜んで」とまで言ったら言い過ぎだ。でも、こんな土産があるなら、多少の無茶くらいは…………。 そう思いつつ伸ばした手の先から、良守を魅了してやまないエクレアが消えた。 「え?」 「やっぱり止めた」 「はぁ〜?」 「735円で『何でもやる』と言われるのは寝覚めが悪い」 「返せ! 俺のエクレアっっっ! ……って、735円?」 魅惑のエクレアが奪われたことに対する衝撃の次に、値段に対する驚きがきた。 この辺りのケーキショップでは、高い店でもせいぜい1個が300〜400円程度。だいたい、シュークリームやエクレアはケーキの中でも安い部類で、店によっては100円程度のことも多い。 それが、735円。 良守にとっては衝撃の値段だ。と同時に、それだけの値段をエクレアに付けるくらいなのだから、さぞや……という期待も膨らむというものだ。 「オ、オレが買おうと思ったら、交通費とかいろいろ掛かるだろ! だから、それには735円以上の価値がある!」 「いやいや。それでも735円は735円。弟に無体な要求を突きつけるには、いささか安すぎる」 「安くない! 全然、安くない!」 「ホントに?」 「ああ!」 その時、良守は完全にエクレアに目が眩んでいた。でなければ、兄の言動に少しは不審を抱いただろう。 「そんなに食べたいの?」 「食べたい!」 「ふ〜ん。じゃあさ……俺にキスできる?」 「…………はぁ?」 いったい何を言ってるのだろう、このバカ兄貴は? 今ここで試せる、できそうもないことを適当に口にしてみたのだろうが、そんなことで、俺のこのエクレアへの想いを止めるなんてことなんてできないぞ! そう決意した良守が、兄に掴みかかる。 ちょっと驚いたように目を見開いた正守の顔に顔を寄せ、口に口を重ねた。勢いが付きすぎて何やらかなり痛かったが、キスはキスだ。 これであのエクレアは俺のもの。 そう思い、顔を離そうとしたところをグイと引き寄せられた。「兄貴?」と言うつもりで開いた口にぬるりとしたものが入ってきて……思わず噛みつきそうになったところを、顎を押さえられることで邪魔される。 そのまま、口の中をそれでさんざん掻き回された。 いったいそれが何なのかその時は解らなかったのだが、くすぐられるだけでムチャクチャ気持ち良い場所があって、だから、それが離れていこうとした時に、つい追いかけてしまったのだ。 その後のことはよく覚えていない。 体中を兄の手が触れていったこととか、体中が熱くなったこととか、一瞬、正気に戻った時に、自分がとんでもない姿勢を取らされていることに気付いて、恥ずかしさに神経が焼き切れそうになったこととか。 そんな記憶もあるにはあるが、ほとんどは感じたこともない悦楽で塗りつぶされていて。 それは、脱力しきったところで食べさせてもらったエクレアのあまりの美味さと共に強く強く記憶に残り。 たぶん、そのせいで癖になったのだ。 兄弟で、男同士で……こんなことは間違っていると解っているのに、止められない。 「……なんで、止められないんだ?」 小声での呟きに、思いもかけずに答えが返ってきた。 「『ちょっと嘗めたが身の詰まり』ってヤツだな」 脱力しきった体を動かすのが面倒で、視線だけで意味を問う。と、したり顔で兄が続けた。 「最初にちょっと味見程度のつもりで始めたところが深みにはまり、どうにもならない窮地に落ち込むこと」 「…………俺が味見したかったのはエクレアで、兄貴じゃねぇ」 「悪いね。セット売りなんだ」 悪いと思ってないこと確実な顔でそう言って、兄が続ける。 「これに懲りたら、これからは軽々しく『なんでもする』なんて言うんじゃないぞ」 それはまったくもってその通りだったので、良守は抗弁せずに大きく頷いたのだった。 |
「ちょっとなめたがみのつまり」 軽い気持ちで始めた悪事や悪い遊びにはまり込んで 身の破滅を招くこと 悪い誘惑には乗るなという戒めを含む 07'12.13.初稿 |