ホットケーキ
 目の前には信じられないくらい分厚いホットケーキの二段重ね。
 香ばしい匂い。これぞキツネ色という焼き具合。てっぺんに乗せられたバターはとろりと溶けて、今にも滑り落ちそうだ。
 添えられているガラスの容器は二つ。蜂蜜とメープルシロップ、どちらでもお好きな方をおかけ下さいということらしい。
 どこからどう見ても美味しそうな、極上のホットケーキ。
 思わず生唾を呑み込んだ良守は、「だが」と心の中で呟いた。

 こんなに分厚ければ、生焼けかもしれない。確かめなければ!

 そう思いながらナイフを入れる。

「おおっ!」

 思わず感嘆の声が洩れた。
 中は、ホットケーキのパッケージ写真そのもの……いや、それよりもふわふわで美味しそうだ。

「美味そうだろ?」
「ああ」

 自慢気な声に、自分で焼いたわけじゃないだろうとは思ったが、店を見つけ出すのだって凄いことだってことは解っているので、ここは素直に頷いておくことにする。
 とりあえず、見た目が最高だってことは確かだ。
 問題は味だが…………。

「美味い」

 食べてみたら、味も最高だった。
 ふわふわの食感。ほのかなミルクの香り、ほんの僅か隠し味のように混ぜられた酸味が甘さに奥行きを与えていて、極上の味わいだ。
 こんなちょっと寂れた感じの喫茶店で出てくるとは思えない。だが…………。

「兄貴……」
「ん?」

 向かい側で同じホットケーキを食べている兄に、声を掛ける。

「もしかして、けっこう疲れてる?」
「は?」

 別に顔色も悪くないし、表情が疲れているわけでもない。姿勢だっていつも通りビシッとしている。
 でも、いつもの兄だったら、もっと凝った味とか不思議な材料を使ったケーキとか。そういうところに自分を連れていこうとするのだ。
 このホットケーキは、確かに美味しい。自宅で作るのとは、一線を画している感じだ。
 でも、それでもホットケーキはホットケーキ。懐かしい味わいで、食べるとホッとする…………つまりここは、今まで兄が自分を連れてきたような店ではないのだ。

 でも、「なんでそう思う?」と面白そうな顔で尋ねられると、何となく根拠としては弱いような気がしてくる。
 なので、「何となく」と答えると、不意に兄はくつくつと喉を鳴らして笑い出した。

「兄貴?」
「おまえさ、昔、俺にホットケーキ作ってくれたこと覚えてる?」
「は?」

 突然変えられた話に、良守は目を瞬かせた。

「ホットケーキ? 俺が? 兄貴に?」

 墨村家では基本的に総てが和風だ。
 当然、子どものおやつも和菓子がメイン。ホットケーキをおやつに食べたなんて記憶はない。
 首を傾げて考え込み始めた良守に、兄が続ける。

「ああ。父さんが、どこかのパーティでホットプレート当ててきてさ」
「ホットプレート? そんなのウチにあったっけ?」
「まだあるんじゃない? どっかにしまい込んであるさ。あれはけっこう便利な道具らしいけど、父さんはけっこう家事に関しては保守的だから、ホットプレートの使い道考えるより、多少手間が掛かっても使い慣れた道具の方を使う方がいいって思いそうだ」
「確かに」

 頷いた後で、良守が尋ねる。

「そのホットプレートで、ホットケーキ作ったのか? いつ頃の話だ、それ?」
「利守が生まれる前だったことは確かだから、おまえが3〜4歳の頃だと思う。たぶん、ホットプレートの説明書にホットケーキを作るのに向いてるとでも書いてあったんじゃないかな? お祖父さんがいない日に、父さんと二人で三時のおやつ作りをしたってとこだと思う」
「へぇ」
「で、ホットケーキの美味しさに感激したおまえは、『お兄ちゃんにも作ってあげる!』と力説して、俺が帰ってくるのを待ちかまえてくれたわけだ」

 ニヤニヤ笑いながらのその台詞に、勝手に頬が赤くなる。

「その記憶、消せ! 今すぐ綺麗さっぱり!」
「嫌だね」
「兄貴!」
「喫茶店で大声上げない。他のお客さんに迷惑だろ」
「…………っ!」

 もっともなその台詞に黙り込んだ良守に、兄がふと思いついたという顔で呟く。

「もしかしたら、そのせいで爺さんがホットプレート封印したのかもな。『良守がケーキ作りなんて軟弱なものに目覚めたのは、これのせいじゃ!』とか言って」
「……ありえる」

 兄の思い出話が嘘でないのなら、確かにそれは自分が小麦粉を使った焼き菓子作りに目覚めたきっかけといえるだろう。祖父が八つ当たりしてもおかしくはない。
 そう思うと、目の前のホットケーキが非常に尊いものに思えてきた。
 とは言っても、その時に自分が作ったものより、これは数段美味しいのだろうが。

 じっとホットケーキを見つめながらそんなことを考えていた良守に、兄がくすくす笑いながら呟いた。

「早く食べないと冷めるぞ」

 確かに、ホットケーキが冷めてしまっては味も半減だ。
 なので、味わいつつも一生懸命ホットケーキを食べ、セットとして出された紅茶を飲んだ後、すぐに出かけなくてはならないという兄とその喫茶店の前で別れ…………家に着いてから良守は気付いた。

 結局、兄が疲れているか否かという話が逸らされてしまったままだということに。

「あんのやろー!」

 良守は思わず叫ぶ。

「やっぱり疲れてやがったんじゃねぇか!」

 でなければ、話を逸らしたりはしないはずだ。
 というか、あんなふうにあからさまな話の変え方をしたところをみると、疲れ果てているという状況だった可能性がある。
 余裕がある時の兄は、もっとさりげなく話を逸らす。もしくは、兄に対して腹を立てた自分が「もう絶対に『疲れてるのか?』なんて聞かない!」と叫ぶような方法を取るはずだ。

「クソバカ兄貴が!」

 そう叫んだ良守は、分厚くても生焼けにならないホットケーキの作り方習得に夢中になり、結果、彼がその技術を身につけるまでの間、閃と秀は生焼けホットケーキの山に苦しめられることとなったのだった。
08'11.23.初稿