甘い水、苦い水
「久しぶりだな、良守。元気にしてたか?」

 相変わらず唐突に烏森に現れた兄の袖を見て、良守は、最後に兄と会ってからかなりの時間が経ってしまったことに気付いた。
 あの時は、確か桜の花びらが兄の羽織のいたる所に付いていたのだ。
 だが、今は…………。

「兄貴、袖」

 正統継承者である自分は、よほどのことがない限りこの地から離れることができず、なので、兄の方から動いてくれなければ会うのもままならない。
 だが、兄はいつだって忙しく、自分のために裂ける時間など、ほとんどないというのが現状だ。
 もちろん、兄が最大限の努力でもって時間を作ってくれているのは知っている。今だって、たぶん仕事を終えた後に寄ってくれたのだろう。

 解っている。解っているのだ。

 だから、「会いたい」と我が儘を言わずにすむように、「寂しい」と恨み言を告げずにすむように、良守はなるべく兄のことを考えないようにして日々を過ごしてきた。
 たぶん、そのせいだろう。こうやって目前に兄が現れても、すぐには現実のことと思えないのは。

「袖?」

 良守が指さした方の腕を不思議そうに持ち上げ、兄が驚いたように目を見開いた。

「今日の仕事はけっこう山奥だったからなぁ」

 そう言って、風をはらませるようにそっと袖を振る。と、袖口からふわりと蛍が飛び出てきた。

「本物、初めて見た」
「そうなのか?」
「蛍が光ってる時間って、俺、仮眠してるし」

 その言葉に慌てたそぶりで兄は携帯を取り出し、時間を確かめてガクリと肩を落とす。

「もう少し早かったら、ちょうど良かったんだが」
「…………少し? 蛍って、夜の八時頃に光るモンだろ?」
「二時頃にもけっこう光るんだよ。天候にもよるが……って、詳しいな?」

 弟が蛍に詳しいということが解せないのだろう。不思議そうな顔で問ねてきた兄に、良守が答える。

「この前、見に行かないかって誘われたんだ」
「…………誰に?」
「クラスの奴等だけど……兄貴?」
「そういうロマンチックなイベントは、俺以外としないように」

 憮然とした顔で告げられた言葉に、良守が目を剥いた。

「ロ、ロマンチックって……! クラスで遠足みたいなノリだぞ!」
「解らないだろ? 蛍ってのは、甘い水に惹かれるものだ」

 誰が蛍で、誰が甘い水だ!
 そう言おうとしたところを抱き寄せられ、唇を塞がれる。

「やっぱり甘い……」

 掠れた声がひどく色っぽい。
 兄の匂い。そして、再びの口付け。
 それに引きずられるように、封じてきた気持ちが一気に蘇るのを感じた。

 寂しかった。
 会いたかった。
 兄を感じたかった…………。

 その感情のままに兄にしがみつき、深くなっていくキスに積極的に応えていく。

「あに……き……」

 完全に力が抜けた体を抱き上げられるがままにされていた良守の目の端に、淡い光の明滅が掠め飛んだ。

「……こっちの水は苦いぞ」
「良守?」

 口の中で呟いた言葉に、兄が問いかけてくる。
 それに「何でもない」と首を振って、良守は苦いと解っている恋の水に自ら溺れようとゆっくりと瞼を閉ざした。
07'06.16.初稿