はじまりの春
「来ちゃった」

 ドアを開けたとたんに放たれた台詞に、良守はぐらりと体が傾いだのを感じた。

『玄関を開ける時には必ず、ドアに開いてる覗き穴を使って相手を確かめなさい。都会は恐ろしいところなのよ。こんなのどかな町と同じような気持ちで暮らしてたら、あんたみたいな子はパクリと食べられちゃうんだから』という母の忠告(後半は謎だったが)に従って、ちゃんと自分は相手を確かめたはずだ。

 坊主頭、額に三日月形の傷跡、この御時世に普段着が和服。
 そんな男、兄以外にいるはずがないと思ってドアを開けたのに、開口一番「来ちゃった」とは…………もしかして、これは兄をモデルにして作った人皮を被ったあやかしなのだろうか?

 確かにあやかしに恨まれても仕方ない生活をしていた自覚はある。
 が、よりによって兄に化けるとはなんて根性の悪いあやかしなのか。自分に力が残っていたら、滅してやるのに…………などとありえない空想で「来ちゃった」の衝撃を追いやろうとしていたところに、声が掛けられる。

「おいおい。大丈夫か? 一人暮らしを始めて一週間も経ってないのに、もう栄養失調か?」
「…………誰がだよ!」
「だって、おまえ、今までずっと家族と一緒だったから料理なんてしたことなかったろ?」
「…………」

 それは、確かにそうだ。趣味のケーキ作りで台所に入り浸ってはいたが、料理の方は手伝いすらしていない。
 料理なんて、ケーキを作るより簡単だろう。自分なら、ちょちょいのちょいで作ってみせる。
 そう思っていたのだが……その自信が根拠のないものだと悟るまでには一日と必要なかった。

 ご飯は炊飯器があったからなんとかなったが、味噌汁もおかずも惨憺たる有様。結局、その日は父が非常用にと持たせてくれた缶詰でしのいだのだ。
 値段も解らない状態では怖くて外食もできないし、出来合いのおかずを買うのはなんとなく気が引ける。
 結果、失敗の少ない鍋料理ばかりを作っていたのだ。
 出汁は、父が持たせてくれたちょっと高級なインスタントを使えば良かったし、醤油や塩で味を調節するくらいはできる。後は適当に切った具を放り込めばいいだけ。

 鍋って本当に素晴らしい。

 そうは思うのだが、いつかは飽きるだろうことも確か。飽きなかったとしても、あと一ヶ月もすれば鍋はちょっという季節になるのだ。それまでに、なんとか料理のレパートリーを増やさなくてはならない。

 でも、覚えなきゃいけないのは、料理だけではないのだ。
 掃除をしなければ、部屋は汚れる。
 洗濯しなければ、着る服がなくなっていく。
 当然のことだったが、家では父が総てをしてくれていたから、自分がやらなければならないという事態になるまでやり方なんてものを考えもしなかった。

 でも、まあそれはいい。
 やらねばならないことならば、してみせる。好きなことを職にするための学校に通うのだ。多少の苦労は覚悟の上だ。
 だいたい、烏森を封印するために払った努力に比べれば、その程度のことは些細なことだろう。頑張れ、自分。

 などと、自分で自分を鼓舞しながら日々を過ごすうちに、少しずつ生活にも慣れ……入学まで二週間もあるのにと思っていた引っ越しは、こうして見ると少しも早いものではなかった。

 学生生活が始まれば、そちらに慣れる時間も必要になる。二重の初めては負担が大きいだろうから、少し早めに家に入って慣れろとの、親心だったのだ。
 さすがと思いながらも、だいぶ家事に慣れてきた今はその親心が少し恨めしくもある。

 認めたくないことだったが…………寂しいのだ。
 生まれてこの方ずっと家族と一緒に暮らしてきた。それも、家は純粋な日本建築で、仕切りなどあってないようなもの。常に、自分以外の人間がすぐ近くに存在するということが当然だったので、密閉性の高いマンションに一人で過ごすという状況になかなか慣れない。
 学校が始まっていれば、忙しさにかまけて考えずにすんだかもしれない。
 だが、家事をしたり、家の近くにどんな店があるのか確認する以外の用事がない状況では、その寂寥感を上手くごまかすことができなかった。

 きっと、こんな気持ちになった時に人はペットが飼いたくなるんだろうな。
 などと思い、成仏(?)した斑尾のことを考えていた時に正守が訪ねてきたわけで…………。
 と、そこまで思考が巡った時には、既に玄関のドアはきちんと閉められた上に鍵まで掛けられていた。
 それをやったであろう兄は、既に中に入っている。

「鍋か。確かに失敗が少ないし、バランスもいい…………味も悪くないな」
「……って、俺の食事の確認に来たのかよ!」

 スプーンで汁の味を確かめ、感想を言っている兄に思わず怒鳴る。
 と、正守は軽く首を傾げて尋ねてきた。

「あれ、なにも聞いてないの?」
「え?」
「俺も住むんだよ、ここに」
「なんだとぉっっっ!」

 あまりにも予想外の言葉に声をひっくり返した良守に、兄はニヤリと笑って続けた。

「じゃなきゃ、緊縮財政なのに部屋が二つもあるマンションなんて用意するわけないでしょ? まあ、おまえはあの広い墨村家に慣れてるから解らないだろうけど、この辺りだとこの物件は家族向けの広さなんだよ」
「…………家族向け?」

 驚いて、部屋を見渡す。
 確かに一人暮らしには広いとは思うが、良守の感覚では広すぎるというほどでもない。そこに家族?

「まあ、家族といっても、子供がまだ小さいくらいまでだろうけど」

 墨村家では、物心付いた時には既に自室を与えられている。
 夜中に仕事に出かける親のせいで子供を起こさないように。それに、子供に自立心を持たせるという意味もあるのだろう。
 正統継承者は、七歳になったら一人で烏森を守らなければならないのだ。部屋で一人過ごすくらいできないでは困る。もちろん、正統後継者ではない子供だって、それに準じた扱いをされるのは当然のこと。
 自分の家の常識が他では通じないことは解っていたが、こんなところまで違うのか。
 そんな思いに目を丸くしている良守に、正守は決定事項を告げる口調で続けた。

「とまあ、そういうわけだから。よろしくな」
「って、冗談じゃねぇぞ! 兄貴はいったい何しに来たんだよ!」

 兄を嫌いなわけではない。が、ずっと一緒に暮らすとなると……考えただけでも嫌な気分になる。
 馬が合わないというかなんというか。兄のやることなすこと、総てが気に障るのだ。兄だって自分を見ていると同じ感想を抱くだろう。

 軋轢の原因が正統継承者云々にあったことは確かなのだから、烏森を封印した現状ではもう少し歩み寄れるような気がしないでもないが……気まずい感情を抱いていた期間が長すぎて、どうしていいのか解らない。
 もしかしたら、それを解消させるために両親がお膳立てしたのかもしれないが、正直な話、余計なお世話というヤツだ。

 絶対に追い出す! 希望に満ちた新生活に、最初からこんな形でケチをつけられてたまるもんか。
 そう思って睨み付けたのだが…………。

「何って、職探し」

 サラリと告げられた言葉に、総ての反論を封じられてしまう。
 烏森完全封印の余波は、思いもよらない形で出た。墨村、雪村共に全員が結界師としての能力を失ったのだ。
 今はもう、良守の掌に方印はない。
 ごく普通の土地となった烏森から解放され、空間を操る異能も失い、ごくごく平凡な少年として、夢に向かって新たな人生の第一歩を踏み出すためにこの地に来た。

 そう。良守にとっては、総ては理想的な形で終わったのだ。
 だが…………。

「ほら、俺ってば中卒でしょ? おまえみたいに特技もないし、田舎じゃなかなか職っていってもねぇ。だから、都会に来た方がマシかなって」
「…………」

 烏森封印の結果、母と兄は職を失うことになったのだ。
 母に関しては、あまり罪悪感を抱くことはなかった。帰ってきた母が今の状況をどう思っているのか表に出さなかったことと、家に常に母がいるという状況が嬉しすぎて、もしかしたら恨まれてるかもという疑いを無視することができたからだ。

 だが、兄に関しては話は違う。
 弟が後継者だからと中学を卒業した段階で家を出て、努力に努力を重ねて手に入れた地位と居場所を一瞬で失ったのだ。良守が、自分の我が儘を押し通したせいで。

 烏森を封印したことを後悔はしていない。
 あの地が平穏なものとなり、誰も傷つくことがなくなったことは喜ばしいと思う。
 だが、それが兄の人生を狂わせてしまったことも確かなのだ。

「そんな顔するなって」

 思わず俯いてしまった良守に、苦笑混じりに兄が呟いた。

「済んだことをくよくよしたって仕方ないだろう? 生きてるんだから、前に進まなきゃな」
「…………兄貴」
「どうしてもおまえが嫌だったら、出て行くから。とりあえず、引っ越し費用が貯まるまではいさせてくれ」
「…………っ!」

 一緒に住むのなんて冗談じゃないと思っていたのに、「出て行く」という言葉に体が震えた。
 兄はいつだって出て行く側なのだ。残された自分の気持ちのことなんて気にもしないで…………。

「嫌だなんて……言ってないだろ…………」
「嫌じゃないの?」

 不思議そうな声に、ムッとする。

「嫌じゃない!」

 思わず叫んで睨み付けると、正守はその口元を緩めた。
 相変わらず何を考えているのか解らないその笑みに、心の中で「早まったか」と思ってしまったが、今更、否定もできない。
 そんな弟を見ながら、正守はスッと右手を差し出してくる。

「んじゃ、ヨロシク」

 条件反射で戸惑った後で、思い出した。
 もう自分の右手には方印はない。それが正守にどんな感情を抱かせるのかと怯える必要もないのだ。

「…………よろしく」

 言いながら右手を差し出すと、ぎゅっと握られた。
 懐かしいそのぬくもりに、良守は思わずこぼれ落ちそうになった涙を堪えるためにぎゅっと唇を噛みしめて俯いてしまう。

 だから、気付かなかったのだ。
 兄の顔に不可解な笑みが浮かんでいたことに。
 気付かぬまま、良守は兄とともに新しい人生の一歩を踏み出すことになったのだった。
07'08.24.初稿